昭利の一本道 [8]  浅野太鼓店を『有限会社浅野太鼓楽器店』として法人化

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 田耕氏との長いつきあいが始まった同じ年、大阪府吹田市で日本万国博覧会が開催された。通称『大阪万博』。岡本太郎氏がデザインした巨大なオブジェ『太陽の塔』をシンボルとしたテーマゾーンの、地上、地下、空中の3層にわたる展示空間で、博覧会のテーマである『人類の進歩と調和』が、世界77カ国と四つの国際機関による88のパビリオンで表現された。中でも人類初の有人月着陸ロケット『アポロ11号』が月から持ち帰った『月の石』を展示したアメリカ館は長い行列が絶えず、人波に押されてゆっくり石を眺めることもできなかった。そして太陽の塔の背後に設けられた『お祭り広場』では、世界各国や国内各地の芸能、舞踊などが毎日披露された。ここでもっとも人気を集めたのが和太鼓。183日間にわたる博覧会開催期間中、北は北海道の『蝦夷太鼓』、南は熊本の『人吉臼太鼓踊り』まで、全国の30あまりの伝統太鼓や神楽が公開された。期間中に博覧会を訪れた入場者はのべ約6422万人というから、そのうち3分の1がお祭り広場を覗いたとして、およそ2140万の人が太鼓や太鼓を伴奏にした芸能を観覧したことになる。こうして太鼓が、また少し裾野を広げた。

0520.2022.a4.jpg 0520.2022.a3.jpg (写真左:月の石)

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 太鼓への追い風は、我が家の背中をも押してくれた。家内工業に毛の生えた程度の規模で営んでいた浅野太鼓店を、この年、『有限会社浅野太鼓楽器店』として法人化。翌46年に結婚。47年には鬼太鼓座の田氏から太鼓製作だけでなく、太鼓指導の相談も受けるようになっていた。当時、鬼太鼓座は太鼓集団と銘打っていたものの、実は太鼓を打てるメンバーはほとんどいなかった。そんな実情をなんとなく察していたので、北陸に伝わるリズムをベースした伝統太鼓では右に出る者のない名人で、以前から我が家に出入りしていた下村の爺さん(下村圭一)に指導を打診した。最初はあまり乗り気ではない様子だったが、私と連れ立ち、鬼太鼓座が寝泊まりしていた佐渡に向かうと、真剣な表情の若者たちに心を動かされたのか、快く引き受けてくれた。

 その後も、これぞと思う太鼓打ちを何人も紹介した。今では多くが他界してしまったが、時折、当時のメンバーと昔語りをする機会があると、懐かしい名前が飛び出すことがある。

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 そして昭和50年(1975)、私は鬼太鼓座の初めてのアメリカ渡航に同行。日本とは気温や湿度が大きく異なるアラバマ州のオーバーン市やマサチューセッツ州のボストン市など、行く先々で太鼓の革の張力をチューニングした。私にとっても初めてのアメリカ上陸で、あれもこれも記憶に残っているが、ことに鬼太鼓座初参加のボストンマラソンで、ブレデンシャルビルの前のゴールに次々にゴールインしたメンバーが、最後の力を振り絞って勢いよく太鼓を打ち鳴らして観衆にアピールした光景は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。

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