1999年3月、石川県川北町で第1回日本太鼓ジュニアコンクールが開催された。2年前に『全日本太鼓連盟』を法人化して設立された『財団法人日本太鼓連盟』の主催によるもので、次代を担う子供たちの健全育成およぴ日本太鼓の後継者育成を図るための全国コンクールという位置づけだ。出演団体は全国の県大会で優勝した高校生以下の代表チームで、第1回では全国34のジュニアチームと、保育所の幼児チームや輪島の『御陣乗太鼓保存会』など4団体の特別出演を合わせて38の団体が出演。以後、同コンクールは現在まで毎年おこなわれ、5年に一度は最初の開催県である石川県が会場になっている。
また同じく1999年、アメリカ・ロスアンゼルスでは97年に続いて『第2回北米太鼓会議』が開催された。ロスアンゼルスの日米会館が主催・運営するもので、4日間の開催期間中に、大きく分けて太鼓ワークショップと、ディスカッション・セッション、そしてコンサートが開催され、アメリカはもとより、カナダ、ドイツ、日本などからも幅広い世代の太鼓愛好者が参加した。北米では1968年に長野県出身の田中誠一氏が『サンフランシスコ太鼓道場』を開いて以来、日系人の間で急速に和太鼓が盛んになり、以後、太鼓会議も現在まで2年ごとに開催されている。

一方、この年、国内でも大きな動きがあった。今に言われる『平成の大合併』の始まりだ。合併の目的は、市町村の行財政基盤の強化と行政の効率化であり、政府は合併特例債や合併算定替をはじめとする各種支援策を講じ、以後10年間にわたって総力をあげて合併を推進した。その結果、1999年には全国に3232あった市町村が、2014年4月には1718に凝縮されていた。
こうした現象は、太鼓界にも少なからぬ影響を与えた。市町村が減少したことにより、自治体主導の太鼓関連イベントが淘汰され、多くの太鼓団体や地域活動が発表の場を失った。それにともない太鼓そのものの普及も鈍化し、拡大の一途だった太鼓文化の裾野に翳りが現れる気配を感じるようになった。そのような危機感に対応するかのように学校教育の指針となる『学習指導要領』において、小・中学校で太鼓などの邦楽器を履修することが義務づけられたり、高校のクラブ活動に太鼓部が奨励されたりして、青少年層に太鼓が浸透する機会が増えた。しかし、それらの成果が現れるのは数年後のことであり、さらに少子化や教育現場における太鼓の指導者不足などの問題も生じている。
1977年(昭和52)、府中の大國魂神社二之宮に口径6尺2寸(約1.9m)の日本一(当時)の大太鼓を納めたことは前に記した。それ以来、我が社には全国の神社や観光施設、太鼓団体などから大太鼓の注文が相次いだ。口径5尺(約1.5m)以上の太鼓だけでも主なところで、明治神宮の5尺、霧島九面太鼓の5尺、近藤産興の6尺5寸、大國霊神社御先払太鼓の6尺6寸、高山まつりの森7尺と6尺9寸、大國霊神社三之宮の6尺、稲荷森稲荷神社の6尺など、今思い出しても、我ながらよく製作したものだ。そして1994年(平成6)、東京の芝閒稲荷神社に5尺2寸の大太鼓を奉納。その製作の様子がテレビ番組『技ありニッポン!』で全国に紹介された。この番組は日本各地のさまざまな分野の職人たちを訪れ、たぐいまれな技術や作品を紹介するもの。撮影にあたってはおよそ2週間にわたり制作クルーが早朝から夜半まで入念な取材を行い、太鼓の製作工程をつぶさに収録。撮影が終わるころには職人たちとも打ち解け、すっかり現場にとけこんでいた。おかげで放映された番組はドキュメンタリーでありながら、ほのぼのと血の通ったあたたかさが感じられた。もちろん反響も大きく、全国からさまざまな激励が寄せられた。この番組によって浅野太鼓が全国区の企業に一歩近づいたことは間違いない。

(写真上:高山まつりの森)
翌95年1月17日。阪神淡路大震災発生。この地域には顧客や知人が多く、テレビで現地の惨状を見るにつけ安否が気遣われた。幸い訃報は届いてこなかったものの、次第に明らかになっていく被害の大きさを知るにつけ胸が痛んだ。だがこの震災を契機に、たとえば神戸の『和太鼓松村組』を筆頭に被災地慰問を目的としたいくつかの太鼓チームが結成され、多くの被災者を元気づけたことで、あらためて「太鼓の力」、いや「太鼓の底力」を実感した。
96年11月、ささやかな私設ホール『浅野−EX』を自宅敷地に開館。太鼓にこだわらず、これまで培った各界の人々との人脈をいかし、文化的な交流の場をつくりたかった。オープニングでは現代美術作家で現東京藝大学長・日比野克彦氏によるペインティング作品群を展示。『仮に棲むものたち』のタイトルで、キャンバスのタテ2.12m、ヨコ1.675mの大作10点を3方の壁面に設置。およそ1カ月にわたる展覧会に続き、インテリアデザイナー・内田繁氏と金沢の陶芸家・大樋年男氏とのコラボレーションによる茶室展示と茶会『茶の湯の現代』、アメリカのビデオアーティスト・ナム・ジュク・パイク氏のインスタレーション『NAM JUN PAIK』などを次々に開催。変わったところではファッションデザイナー・早川タケジ氏による歌手・沢田研二の舞台衣裳展なども開催し、これらの催事によりさらに新しい人脈が開けた。それもひとえにホールの運営を一任した現浅野太鼓文化研究所理事・小野美枝子の"こわいものしらず"の奮闘によるところが大きい。感謝している。 (写真右上:茶室展示)

(写真上:ナム・ジュン・パイク展)
1993年は私にとって一つの記念碑的な年だった。
まず一つ目は、山本寛斎さんとの出会い。寛斎さんという人物にはその数年前から知己を得ていたが、私の「イベントプロデューサーの師」としての寛斎さんとの出会いは、まぎれもなく1993年だった。その約1年前の1991年12月、ソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立した。その生まれたてのロシアで、経済改革などによる混乱のまっただ中にいたロシアの人々を元気づけようと、寛斎さんは「人間賛歌」をテーマにした大イベント「ハロー! ロシア」を企画した。会場は、モスクワの赤の広場。
ファッションデザイナーの寛斎さんだからこそのファッションショーを中心としたイベントに、静岡の「三ヶ日手筒花火」、福島県の「相馬野馬追」騎馬隊、和太鼓には「炎太鼓」が出演させていただいた。炎太鼓の出演については事前に寛斎さんご自身が3度ほど松任に足を運ばれ、演奏レベルを確認。当時、炎太鼓は「女の太鼓」を意識した艶っぽい打ち方を売りにしていたが、寛斎さんはそうした打法をきっぱりと拒否。ただストイックに筋肉の美を見せる演奏を求められ、ようやく三度目の来県で出演OKのGOサインが出た。もし、あの時に出演を拒まれていたら、私と寛斎さんとの関係はもっと淡々としたものになっていたかもしれないと思うと、今思い返しても冷や汗が出る。寛斎さんの期待に沿うため頑張ってくれた炎太鼓に感謝だ。
そんな経緯を経て向かったモスクワ。現場での寛斎さんはただただパワフルに動き回っていた。ショーの進行を組み立て、ステージ設営や音響・照明の指示を出し、モデルのオーディションや、現地の軍隊を黒子として調達したのも寛斎さんの指揮。本番の6月5日にはMCまで担当し、躍動感に満ちたショーにはおよそ12万人の観衆がつめかけた。そうした寛斎さんの姿に間近に接し、私はイベントのノウハウを逐一記憶に刻み込んだ。さらに2000年の「ハロージャパン! ハロー21! INぎふ」(岐阜県長良川競技場)、2004年KANSAI SUPER SHOW「アボルダージュ~接舷攻撃~」(日本武道館)、2005年日本国際博覧会 愛・地球博 オープニングイベント「とぶぞっ! いのちの祭り」(愛知 愛・地球博 長久手会場)、2007年KANSAI SUPER SHOW「太陽の船」(東京ドーム)、2010年KANSAI SUPER SHOW 「七人の侍」(東京 有明コロシアム)、2017年日本元気プロジェクト2017「スーパーエネルギー!!」(六本木ヒルズアリーナ)と、多くのショーに太鼓を起用してくださった。そしてなんと、2019年の日本元気プロジェクト2019「スーパーエネルギー!! 」(六本木ヒルズアリーナ)では、寛斎さんがデザインしたジャケットを着た私がモデルとなってランウェイを歩くという思いがけない体験までさせていただいた。これら一つ一つの経験の積み重ねがなければ、今、曲がりなりにも「イベントプロデューサー」を肩書きの一つとする私はいなかったかもしれない。







(上記写真右:会場まで足を運んでくれた母)
寛斎エネルギーをたっぷり吸収し、わくわくしながら帰国した翌月。胸の熱気もさめやらない7月25日、前年の石川国民文化祭の太鼓イベント「ふる里の響き太鼓祭り」から生まれた太鼓コンサート「BEATS OF THE LIFE 壱刻壱響祭'93 〜リズムの生誕/生誕のリズム〜」第1回を開催した。会場は松任総合運動公園に設けた野外の特設会場。出演は、当時、実力No1といわれた「時勝矢一路」、福井の「はぐるま太鼓」、兵庫の笛の名手高野巧、長野県の「水芭蕉太鼓」、ジャワのガムラン・グループ「ダルマ・ブダヤ」、「三ヶ日花火保存会」「炎太鼓」など約200名。スタッフは熱意だけで集まってくれたボランティア総勢160名。客席の設営や会場各所のサイン、受け付け、観客誘導、食事のまかないなど何もかもが手づくりで、誰もが初めて体験する運動会のようにはしゃぎ、あちこちで笑い声が起こっていた。この第1回目の集客は約3500人。大成功だった。嬉しかった。有り難かった。人の力、熱意の力、企画の力、勢いの力、ご支援の力、そして太鼓の力と、いろんな力の相乗を実感したコンサートだった。これが今年2,9回目の開催を迎える「白山国際太鼓エクスタジア」の原点であり、この時の運営態勢は30年が経過した現在まで引き継がれて、今も多くの皆さんに支えられ見守られている。
そして1993年の三つ目の心のモニュメントは、林英哲さんの「第43回ベルリン芸術祭」への出演だった。芸術祭はドイツの首都ベルリンで、音楽、演劇、パフォーマンス、舞踊、文学、造形芸術などの分野で、一年を通じて展覧会や音楽会が実施されている。その中の一つである音楽祭は、ベルリン芸術祭における国際的なオーケストラ・フェスティバルであり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共催で行われている。最終日に出演された英哲さんは、一昨年に他界された東京藝術大学副学長だった松下功先生の作曲による、ベルリン芸術祭委嘱作品「飛天遊」をベルリン・フィルの若手メンバーで構成された「シャルーン・アンサンブル」と共演。世界初演の作品は雄々しく伸びやかで生命力に満ち、日本の太鼓がこうした場で堂々と演奏される時代になったことを、太鼓に携わる身として言葉にならない感銘を受けたできごとだった。9月23日だった。
なお、日本国民の一人として、心よりの祝意を捧げた皇太子徳仁親王、小和田雅子のご成婚も、この年の6月9日だった。
1992年10月24日から11月3日までの11日間、石川県の21市町村を会場に、第7回国民文化祭が開催された。44の事業が実施され、全体を象徴するキャッチフレーズは『伝統と創造』。そのフレーズがもっともよく似合うと自負しているのが、ここ松任市(現在の白山市)で行われた太鼓のイベントだった。まさに、伝統と創造のせめぎあい。伝統を受け継いできた土着の太鼓と、自由な発想で常識を打ち破る創作太鼓の競演。それまでの国文でも太鼓に関わる事業はあることはあったが、これほど太鼓に熱い視線が注がれるようになったのは、この第7回の成功があったからこそと思っている。
その2年前から松任市では実行委員会が組織され、着々と事業計画が進められた。「せっかく石川で国民文化祭が開かれるなら、太鼓という切り口でかかわりたい」と、私も意気込みだけで委員会に手を挙げた。プランはこれから考えればいい。幸い認められた太鼓事業のトップに松任市役所文化課課長の太田さん、事務局長に同じく文化課職員の徳井孝一さん(現松任博物館館長)、そしてプロデューサーには当時のNHKで肩で風切る勢いの敏腕演出家の和田勉さんが就任することが決定。そこに私を加えた4人の「ベストメンバー」は、日々、意見を出し合い、知恵を出し合い、時には脱線もしながら、胸を熱くして目標の11月1日に向かった。イベントの名称は『ふる里の響き太鼓祭り』。主催都市の特権で、全国47都道県から「これぞ」と思うチームを各1団体ずつ選抜。さらに8団体のプロチームを加えた計55組の太鼓団体を招聘し、いよいよ迎えた当日。松任総合体育館に設けた特設ステージでは、人気絶頂のデュオ歌手「ピンクレディ」」のケイちゃんに司会にお願いしていたものの、和田さんがアナウンス用シナリオの制作を忘れていたためケイちゃんが途方に暮れるなどアクシデントは数々あれど、そんな舞台裏はおかまいなしに会場は熱気沸騰。ステージの上では入れ替わり立ち替わりに出演チームが自慢の腕前を披露。その演奏時間は、なんと、のべ10時間にもおよび、熱心な太鼓ファンを根こそぎしびれさせた。今思い出しても、まったく豪快な太鼓の競演だった。




といっても、実はフタをあけるまでは、これほどの盛況を招く自信はまったくなかった。だが幸いにも和田さんの斬新な構成と、太田課長の太っ腹な裁量、そして両者の橋渡し役として奔走した徳井さんの機動力のおかげで、予想以上の成功を収めたのだった。それと、思いがけずに手に入った宝物が一つ。徳井さんの「せっかく松任で太鼓のイベントをやるのだから、松任にちなんだ太鼓の曲を作ったらどうだろう」の一言に背中を押され、現代音楽の作曲家、水野修好さんに曲づくりを依頼。書き下ろしていただいたのが地元に伝わる「松任ばやし」を発展させた「新松任ばやし」で、この曲は今も地域の有志によって受け継がれている。
こうした体験を通じ「太鼓にはこれほど多くの人の心をつき動かす力がある」と、あらためて思い知った。この思いはその場にいた多くの人に共通していたようで、翌年3月、松任市の新たな和太鼓芸能の可能性を探るための研究グループが、徳井さんを中心として活動開始。そして7月、今に続く「白山国際太鼓エクスタジア」の前身「壱刻壱響祭」の第1回目が開催されることになったのだ。
奇しくも、明2023年、石川県は県として2度目の開催となる第38回国民文化祭の会場となる。その中でここ白山市のシンボル事業とされたのが、第7回での「ふるさとの響き太鼓祭り」から生まれた「白山国際太鼓エクスタジア」とは、誰が予想しただろう。まことに嬉しく有り難い巡り合わせだ。エクスタジアのファンの皆様も含め、これまでご30年にわたって応援してくださった関係各位に心からの感謝をこめて、今回も全力で取り組みます。
今や、かつぎ桶太鼓が全盛だ。30年ほど前には予想もしなかったことだ。かつぎ桶太鼓とは、細長く裁断したスギの板材を桶のように円柱状に組み、竹のタガで締めて胴とし、その両端に一枚革を当ててロープで締めた太鼓だ。ゆえに桶の胴の太鼓。じかに床に置いて打ったり、台に据えて立奏したりするが、今の主流はストラップを使って肩から吊り下げ、パフォーマンスを交えながら演奏するスタイルだ。
かつぎ桶が世に広まるきっかけとなったのは、1990年、当時鼓童のメンバーだったレナード衛藤さんが作曲した『彩』の出現だった。この曲が初めて舞台で演奏された時、桶胴太鼓を肩から吊り下げ、自在に動き回りながら細かいリズムを連打する姿は、観客に新鮮な衝撃を与えた。太鼓は据え置くものという常識から解き放たれた、自由な太鼓の姿がそこにあった。
だが、その前に、初めて桶胴太鼓をかついで動き回りながら演奏したプレイヤーがいる。レナードさんと同じく、当時の鼓童メンバーだった富田和明さんだ。85年、鼓童は初の『親子劇場公演』ツアーに出ることになり、演出をまかされたのが富田さん。前向き思考の富田さんは、何か新しい趣向のオープニングを、と考えた末、肩から吊った桶胴太鼓をたたきながらロビーから入場。リズムに合わせてツーステップで通路から舞台に上がり、5人の奏者が動き回りながら演奏を終えたら、またツーステップで退場するという演出を考案。曲名はそのものズバリの『縦横無尽』。観客は初めて見る演奏方法に一瞬あっけにとられたものの、躍動感のある雰囲気が大ウケだったとか。正確にはこれがかつぎ桶スタイルのデビューで、そのスタイルを取り入れたのが、前述のレナードさん。青森県弘前に伝わる『お山参詣』と「西馬音内盆踊り」の演奏スタイルとリズムにヒントを得た『彩』で韓国のサムルノリに使われるチャンゴとジョイントし、アクティブさと音楽性を併せ持った〝かつぎ桶奏法〟を確立した。
以来、かつぎ桶は急速な勢いで普及した。軽量・可動型によるパフォーマンスの多様化や軽快な音色、両面打ちに見せる技巧の美しさ、入手しやすい価格帯などが魅力だったと思われる。そして今やかつぎ桶は一つのブームを築き、和太鼓の舞台にかつぎ桶の演目は定番といえるほどになった。
桶胴太鼓といえば、かつてはほとんどが祭り用だった。中でも東北や北陸の祭りには大小の桶胴が使われ、たとえば東北なら青森の『ねぶた』や弘前の『ねぷた』『お山参詣』、北秋田の『綴子大祭』、盛岡の『さんさ踊り』、岩手・宮城にまたがる『鹿踊り』など。北陸では今も伝わる農耕行事『虫送り』になくてはならない太鼓だ。

さらに70年の大阪万博で全国の郷土芸能が上演されたのを契機に、各地の町おこしや村おこしの手段として、地域に埋もれていた祭り太鼓や民俗芸能に目が向けられるようになった。80年代になると、地域や伝承にとらわれることなく太鼓を音楽の一つのジャンルとして取り組む〝創作太鼓〟のグループが各地で産声を上げ始めた。とくに威勢がよかったのが北海道登別において大場一刀さん率いる『北海太鼓』で、その影響を受けた周辺地域の太鼓グループからも大量に桶胴太鼓の注文が舞い込んだ。とりわけ口径2尺5寸、長さ4尺の太鼓に注文が殺到し、連日のように松任駅から北海道行きの貨車に太鼓を積み込んだ日々が思い出される。 (写真:「たいころじい 22巻」より)
また、革や木材についても研究を進めた。まず革については、それまでの太鼓は長く打ち続けると革が緩み、90分の舞台をもたせるのがせいぜいだった。「なんとかしてくれ」と太鼓を持ち込まれるのが歯痒く、長時間の演奏にも耐え得る太鼓をつくろうと強く思った。太鼓職人に対しては昔から深い差別意識があり、どんなに頑張っても「なんや、太鼓屋か」と軽くあしらわれた。そんな風潮も悔しく、どこの太鼓屋さんにも負けない商品をつくって浅野太鼓を全国区にしたかった。今思えば、この悔しさがすべてのバネだった。そして生皮の処理から、牛のどの部位の皮を使うか、革を張る際の仮張りと本張りの工夫など、昼も夜も考え続けた。(右写真:日経広告手帖より)
木材については含水率や、気候や地域の違いによる収縮率にこだわり、革の緩まない太鼓をつくるには、木材の乾燥度合いが重要という結論に至った。数年後に乾燥機メーカーの力を借りて、ハイブリッドドライヤーを共同開発。木材の含水率9%を維持し、硬い胴と強い革を用いることで、革が緩まない太鼓づくりの技術を完成した。
ほかにも舞台での存在感を高めるために、長胴太鼓の胴に取り付ける座金と釻のデザインに、人間国宝の刀匠による鍔の形にヒントを得て、まったくオリジナルの唐草模様のデザインを考案したり、それまでは鋲の部分で切り落としていた革の端を巻耳にしたりなど、新しい意匠の太鼓を生み出すことに夢中になっていた。
1988年(昭和63)は、日本という国にとっても、浅野太鼓にとっても、躍動感に満ちた年だった。まず日本の動きでは、本州の青森県今別町と北海道知内町を結ぶ海底トンネル大工事が竣工し、当時としては世界一の長さを誇った青函トンネルが3月1日に開通。次いで3月17日、球場やホールなどを備えた日本初の全天候型多目的スタジアムの東京ドームが開場。さらに4月10日、本州の岡山県倉敷市と四国の香川県坂出市を結び、鉄道道路併用橋としては「世界一長い鉄道道路併用橋」としてギネス世界記録にも認定された瀬戸大橋が開通した。
それらのインフラ整備と肩を並べるように、文化的イベントとして『なら・シルクロード博覧会』『瀬戸大橋架橋記念博覧会』『ぎふ中部未来博覧会』などが相次いで開催。また当時の竹下総理のもと、バブル経済の中で全国の市区町村に対し地域振興のために1億円を交付した政策「自ら考え自ら行う地域づくり事業」(通称: ふるさと創生一億円事業)が翌1989年にかけて行われた。この地域振興策によって、太鼓で「町おこし・村おこし」をしようと各地の自治体が続々と名乗りを上げ、我が社は全国からの注文によって未曾有の忙しさとなった。今思えば、まさに「太鼓への追い風」のまっただ中に立っていた。
そうした活気は私自身の細胞も活性化させ、毎朝4時には起床して現在進行形の目標に向かってフル稼働した。まず2年前から構想していた『太鼓の里』づくりは、「1.最新の設備を備え、かつ誰でも見学できる安全な工場の整備」「2.世界の打楽器を展示する資料館の建設」「3.宿泊も可能な太鼓練習場を備えたショールームの開館」という3本柱を策定。すでに前年には新工場が完成し、太鼓業界としては画期的な省力化と増産システムを実現していた。そしてこの88年9月1日、続く2本目の柱、『太鼓の里資料館』をオープン。白壁となまこ壁を組み合わせ、日本の伝統建築である土蔵をイメージした館内には、打楽器のルーツがあるアフリカをはじめ、アジア、中国、アメリカ、オセアニアなど、世界の打楽器数百点を展示。フロア中央に口径6尺の大太鼓を据え、入館者が見上げるような大きな太鼓を自由に打てるようにした。そしてこの2年後、3本目の柱である練習場のあるショールーム『新響館』を開館し、太鼓の里の全容が整った。

(写真右より: 炎が打つ「大和」、資料館内のガムラン、資料館内)
その一方、資料館のオープンに先がけること1カ月半前の1988年7月15日、『太鼓の里』というハード構築に対してソフト面での新規事業もスタート。これも世界で唯一、太鼓に関する情報を集積した情報誌『たいころじい』第1巻を発刊した。というのも、1970年に佐渡で旗挙げした『佐渡の國鬼太鼓座』の創設に深くかかわった民俗学者の宮本常一が著書『忘れられた日本人』の中で述べていた「記憶されたものだけが、記録にとどめられる」という一節がなぜか忘れられず、いつのまにか「記録されたものしか、記憶にとどまらない」という私なりの確信に変わっていた。そして今歩き始めた太鼓文化を次の世代に伝えるには、「活字だ!」。活字によって情報が伝わり、人と人の思いが結ばれ、過去と現在、未来がつながる。本づくりにはまったくの素人だったが、幸いにも小野美枝子という信頼できる人材に編集を委ねることができ、以後『たいころじい』は2014年、第42巻まで続くことになる。

さらにもう一つ、女性だけの太鼓チーム『炎太鼓』が始動したのもこのころだ。当時、太鼓を打つ女性は少数いたものの、大太鼓に限ってはほぼ男社会だった。だが、女が大太鼓を打ったら、どんな舞台ができるだろう。そう思ったら矢も楯もたまらず、折しも太鼓教室に通ってきていた地下朱美に声をかけた。二つ返事で話に乗ってきた地下は友人を誘い、まもなく二人だけのチームを結成。現在、『焱太鼓』の表記は『火』の文字を三つ重ねた『焱』だが、この時はメンバー二人ゆえに『火』が二つの『炎太鼓』だったのも、今は懐かしい。
ふと全国を見回せば、今に続く太鼓イベントが、あちこちで産声を上げていた。佐渡では8月15日、鬼太鼓座解体後に誕生した『鼓童』が、佐渡島小木町に正式に居を定めた「開村記念コンサート」として第1回の『アース・セレブレーション』を開催。岩手県では10月16日、『陸前高田全国太鼓フェスティバル』第1回が行われ、2011年の東日本大震災で被災した際も愛知県に会場を移して実施、コロナ禍以前の2019年まで毎年継続されてきた。
(右写真:1998年の第1回アースセレブレーション初日)
昭和60年(1985)ごろ、日本は1970年代から高まりをみせてきた地域活性化の機運が盛り上がり、東京一極集中を是正して地方に活力を分散しようという動きが活発になってきた。こうした状況は、一時は「地方の時代」という言葉が流行語になるほど声高に論じられたが、しかしその熱気が肝心の『地方』に伝わってきたのは、中央の動きが鎮静化してきた80年代になってからだった。ようやく自分たちの住む『地方』に、都会にはない『宝』があると気づいた地方の人々は、その『宝』=『独自性』を全国にアピールする一環として、『宝』を核にした『○○の里』なる文化施設を各地に建設しはじめた。そうしたニュースを耳にして、私は「これだ!」と思った。『太鼓』を核にした『太鼓の里』! 全国に太鼓屋も○○の里も数々あれど、まだ『太鼓の里』はない! 思い立ったら一気に頭に血がのぼる私は、完全に『里構想』のとりこになり、胸をワクワクさせた。だが、『里』をつくるにはどうしたらいい? 資金は? 敷地は? 里の中身は? 頭を冷やせば課題は山積しており、それまで『文化』というものに縁をもたず途方に暮れた私は、知人の中で唯一の『文化人』である挿絵画家の西のぼるさんに相談をもちかけた。今では講談社をはじめとする大手出版社の単行本や、日経、中日など新聞の連載小説の挿絵にひっぱりだこの西先生だが、当時は太鼓を運ぶダンボールに気軽にイラストを描いてくれるなど、同じ松任市に住む、気のおけない間柄の同級生だった。もちろん交友は現在も続いている。
私の思いを受けとめ、いろいろとアイデアを出してくれた西さんのおかげで、どうやら里構想のアウトラインが見えてきたのが61年。時を同じくして、当時の中西陽一石川県知事から、県の施設建設のため金沢に所有している土地を分けてほしいと申し入れがあった。金沢の土地とは、父が生前「子供たちのために」とわざわざ借金までして残した300坪の田んぼ。「こんな土地を残されても」と、用途もないまま手つかずとなっていたその土地を眺めて一時は父を恨んだものだが、なんと、そんな地面が役に立つとは。しかも、松任の浅野太鼓の近くにある空き地と交換してくれるという。まさに「渡りに船」とはこのこと。これが『太鼓の里』の用地となった。やはり、親とはありがたいものだ。

こうして『里』づくりを進める一方、浅野太鼓はもう一つ大きな挑戦に踏み切った。これまで手がけたことのない『鼉太鼓』の製作。鼉太鼓とは、平安時代に日本で発祥した雅楽の太鼓で、左方・右方の一対の太鼓に独特の華麗な意匠がほどこされている。今なら、大阪の四天王寺や、名古屋の熱田神宮などの拝殿に鎮座しているのを目にしたことがある人もいるだろう。胸のうちには、父亡き今、この太鼓を立派に完成させることができたら、きっと浅野太鼓のこれから行く道を切り開くきっかけになるだろう、との秘めた思いがあった。
太鼓とともに彫刻の技が出来栄えを左右するこの太鼓の工人として依頼したのは、父の代から腕を見込んでいた彫刻師の北川毅さん。まずは実物を所蔵している奈良の春日大社宝物殿を訪れ、製作の参考にした。私たちはさまざまな角度から一対の太鼓を観察し、スケッチをし、写真を撮った。それらの資料をもとに北川さんは図面を起こし、私は文献を繰って巴や龍、鳳凰、宝珠、火焔など多くの装飾や、色彩と数の法則など、太鼓の意匠に込められた意味を追った。その結果、ああ、なんと壮大な願いが凝縮した太鼓だろう。そこに見えたのは、五穀豊穣と極楽往生、平和と協調、そして万物の隆盛と再生。平安の人々がおよそ考えつく限りの祈りと願いが太鼓に隠されていた。「これは半端な気持ちではできない仕事だ」。私はあらためて臍を固めた。
やがて2年後。総高3.5メートル、革面に三つ巴を描いた締太鼓を上昇する二等の龍が守り、燃えさかる火焔の頂点に黄金の日輪を掲げた左方太鼓が完成。その2年後、革面の二つ巴を抱いて二羽の鳳凰が飛翔し、頂点に銀色の月輪を掲げた右方太鼓が完成した。
極彩色に彩られ、華やかさと厳かさを放つひと組の鼉太鼓。今は霊峰白山の麓で「加賀一之宮」と崇められ、全国におよそ3000の末社を従える白山神社の総本宮である『白山比咩神社』の拝殿で、堂々とした威容をたたえている。
前章で父のことを記し、ふと、同じ世代に生きた『御陣乗太鼓』の池田庄作さんを連想したので、ここに紹介する。

北陸は全国的にみても太鼓の盛んな土地柄だ。石川県の御陣乗太鼓や『加賀太鼓』、福井県の『越前権兵衛太鼓』『明神ばやし』などは、広く名が知られている。中でも太鼓ブームに先がけて、いち早く海外公演や映画出演を果たしたのが御陣乗太鼓だ。能登半島の先端、輪島の名舟地区に伝わる御陣乗太鼓は、奇怪な面をつけた打ち手数人が一つの太鼓を囲み、気迫のこもった打ち込みで聴き手を圧倒する。戦国時代、奥能登に攻め入った上杉謙信の軍勢に対し、村人たちが木の皮でつくった面に海草をつけてかぶり、太鼓を打ち鳴らして追い払った伝説に由来するといわれる。
名舟集落だけに受け継がれてきたその太鼓を、戦後になって世間に知らしめたのが池田さん。多い時には年間400回以上の公演を重ね、海外公演は6カ月以上に及んだ時期もあったと聞く。「ドコドコドコドコ」の地打ちにかぶせ、縁打ちも交えた激しい打ち込みは太鼓の革の消耗が早く、池田さんは革の破れた太鼓を背負ってよく浅野太鼓に駆け込んできた。その胴の最大径は1尺5寸5分(約47cm)。新調する場合も必ず1尺5寸5分と決まっており、ある時、なぜその寸法にこだわるのかと問うと「1尺6寸(約49cm)では列車の乗降口を通れない」とのこと。なるほど。太鼓一つを抱えて仲間とともに列車でどこへでも向かう池田さんの、どうしても譲れない鉄則だった。生前の父はそんな池田さんを嬉しそうに迎え、御陣乗太鼓特有の「カーン」と甲高い音を発するよう、繊維の細かい革を特別に吟味して張力の限界ぎりぎりまで締め上げた。つねに全力で打ち切る池田さんへの、父なりの手助けだった。
御陣乗太鼓は昭和35年(1960)に保存会を設立。38年、石川県無形文化財指定。池田さんは78歳で現役を引退するまで60年以上にわたって太鼓を打ち続け、平成16年(2004)、太鼓打ちとしては初めて旭日双光章を受章。平成24年に逝去された。今では池田さんの教えをうけた世代が、石川を代表する芸能として御陣乗太鼓をしっかりと継承している。
御陣乗太鼓は、毎年、7月31日から8月1日にかけて行われる『名舟太祭』で奉納される。昨年はコロナ禍により祭礼が中止されたが、今年は規模を縮小して開催。久し振りに名舟の海にとどろいた太鼓を、池田さんも父もきっと喜んで聞いていたことだろう。
昭和57年元旦の日経新聞に父の記事が掲載されたことは、予想以上の反響をよんだ。さっそく翌日から、大太鼓の注文や問い合わせが相次いだ。中でも思い出深いのは、名古屋で「何でも貸します」のキャッチフレーズで業績を上げていたイベント会社『近藤産興近藤成章社長』さんから製作依頼を受けた6尺5寸(約1.95cm)の大太鼓。およそ2年をかけて完成した大太鼓の胴の中に金箔張りと、胴の中央に金箔で大きく描いた「ん」の文字は、当時119歳で長寿世界一と話題になった泉重千代翁の揮毫。
巨大な漆塗りの御所車に鎮座したきらびやかな太鼓は、テレビや新聞で賑々しく紹介された。通称『「ん」』太鼓」は59年9月に納品したが、父はその3カ月前の6月に75歳で他界。「ん」太鼓に続き、新聞で述べた抱負が実現し「世界一の大太鼓」として翌60年に奉納した大國魂神社の6尺6寸御先拂太鼓ともども、完成を見ることなく旅立ったのはさぞや無念だったろう。
(写真右:6尺6寸大太鼓 御先拂太鼓 大國魂神社)
ほとんど家庭を顧みず、太鼓づくりもいちがいを通した父で、心から尊敬できたわけではなかったが、亡くなってみるとやはり心細かった。「自分に会社を引っ張っていけるだろうか」。亡くなる少し前、死期の近いのを悟った父から実印を渡され、経営を引き継いではいたが、この先うまく運営していけるのか。太鼓づくりの技術も、肝心な部分は自信がなかった。また父独特の考え方により、借金もあった。「子供には財産より借金を残すに限る。借金は人を働かせる」と。無理に金沢に買い求めた土地が恨めしい。
だが弱音を吐いているヒマはなかった。太鼓はますます人気が高まり、かつて小口さんが言ったように、世界的な広がりを見せてきた。『鼓童』を退団してソロの打ち手となった林英哲さんが、太鼓奏者として日本で初めてアメリカのカーネギーホールに立ったのはこの年だ。チューニングに同行した私も、日本の太鼓にアメリカの観客が歓喜する光景が誇らしかった。


(写真左:林英哲氏とエンパイアビルにて 写真右:打ち上げ)
それにつけても、かつてないまぶしい陽が太鼓に当たり始めたことは間違いないと37歳の私は確信した。太鼓づくりの家に生まれ、これからも太鼓というただひと筋の道を歩いていくだろう私は、40代、50代、60代になった時、どんな風景を見ているのだろう。そう思うと未来に対して何一つ設計図を描いていないことに一抹の不安を覚える一方、自分の発想次第でこれまで誰もやったことのない冒険にも挑戦できるのだと、胸がわくわくするのだった。
女流太鼓の草分け『みやらび太鼓』の川田公子さんに初めてお目にかかったのも、発足して間もない日本太鼓連盟の講習会場だった。昭和14px;">年に日劇の『春の踊り』で太鼓奏者としてデビューされた川田さんのお顔はたびたびテレビで拝見していたが、実際に目の前でほほえんでおられる女性はテレビで見るよりずっと美しく、華奢だった。「この人が、本当にあの力強い太鼓を打つ人だろうか」。私はどぎまぎしながら挨拶を交わし、いつかこの人の太鼓をつくってみたいと強く思った。
その日は意外に早くやってきた。川田さんも私も若く、怖い物知らずだった。川田さんのアイデアで、いくつかの太鼓を組み合わせた二面太鼓や三面太鼓、あげくは一枚革をそのままホリゾントに吊り下げた公子太鼓や大団扇太鼓など次々に型破りな太鼓に挑戦。私はゼロから始めるモノづくりの面白さを知った。
川田さんはそれらの太鼓を使い、舞台に芸術作品の花を咲かせた。それまで太鼓の舞台といえば、数曲の楽曲を順番に演奏する単純な構成だったが、川田さんはリサイタルごとにテーマを設け、内容に合わせた音づくりとストーリー性を持たせた進行によって大きな一つの物語を紡いだ。そうした手法はその後多くの演奏者に取り入れられ、総じて太鼓舞台の芸術性を高めることになった。昭和57年、第2回リサイタルで文化庁芸術祭優秀賞を受賞。太鼓奏者として日本で初めての快挙だった。
一方、佐渡では、昭和46年に旗挙げした『佐渡の國鬼太鼓座』が10年間の活動を経て解散。代表の田氏と座員たちの考え方の乖離が原因と聞いた。田氏は太鼓と鬼太鼓座の看板を持って佐渡を離れ、残った座員たちは『鼓童』を設立。代表になった「ハンチョウ」こと河内敏夫さんからふたたび太鼓一式の注文を受け、私は同年代の若者たちの行く手を太鼓づくりの立場から応援しようと心に決めた。
さて、57年といえば、我が家の家宝となっている新聞がある。昭和57年(1982)1月1日付けの日本経済新聞。その24面の紙面中央に、白抜きで大きく「景気よくドンと〝世界一〟」の大見出し。横に「巨大太鼓づくりに「新年の計」浅野義雄」とある。昭和52年、府中の大國魂神社二之宮に,口径6尺2寸(約1.9m)という日本一の大太鼓を納めていたが、今年はさらにそれを上回る日本一、いや世界一の大太鼓をなんとしてもつくりたいと、年頭にあたって大太鼓製作に意欲を燃やす父の気概が意気揚々と紹介されている。しかも驚くべきは、父の記事を囲むそうそうたる顔ぶれ。元旦にふさわしく、干支の戌を描いた挿絵は日本画の大家・奥村土牛の作。現在も連載が続いている『私の履歴書』は経済団体連合会名誉会長の土光敏夫、『交遊録』には日本画の橋本明治が登場。下段の連載小説『狼が来たぞ』は芥川賞作家の古山高麗雄。そしてサントリーの広告に至るまで、新日本製鐵社長の武田豊の寄せ書きという豪華さで、期せずして父の一世一代の晴れ姿となった紙面だった。
