昭利の一本道 [19] 道しるべとなった1993年

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1993年は私にとって一つの記念碑的な年だった。

 まず一つ目は、山本寛斎さんとの出会い。寛斎さんという人物にはその数年前から知己を得ていたが、私の「イベントプロデューサーの師」としての寛斎さんとの出会いは、まぎれもなく1993年だった。その約1年前の1991年12月、ソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立した。その生まれたてのロシアで、経済改革などによる混乱のまっただ中にいたロシアの人々を元気づけようと、寛斎さんは「人間賛歌」をテーマにした大イベント「ハロー! ロシア」を企画した。会場は、モスクワの赤の広場。

 ファッションデザイナーの寛斎さんだからこそのファッションショーを中心としたイベントに、静岡の「三ヶ日手筒花火」、福島県の「相馬野馬追」騎馬隊、和太鼓には「炎太鼓」が出演させていただいた。炎太鼓の出演については事前に寛斎さんご自身が3度ほど松任に足を運ばれ、演奏レベルを確認。当時、炎太鼓は「女の太鼓」を意識した艶っぽい打ち方を売りにしていたが、寛斎さんはそうした打法をきっぱりと拒否。ただストイックに筋肉の美を見せる演奏を求められ、ようやく三度目の来県で出演OKのGOサインが出た。もし、あの時に出演を拒まれていたら、私と寛斎さんとの関係はもっと淡々としたものになっていたかもしれないと思うと、今思い返しても冷や汗が出る。寛斎さんの期待に沿うため頑張ってくれた炎太鼓に感謝だ。

 そんな経緯を経て向かったモスクワ。現場での寛斎さんはただただパワフルに動き回っていた。ショーの進行を組み立て、ステージ設営や音響・照明の指示を出し、モデルのオーディションや、現地の軍隊を黒子として調達したのも寛斎さんの指揮。本番の6月5日にはMCまで担当し、躍動感に満ちたショーにはおよそ12万人の観衆がつめかけた。そうした寛斎さんの姿に間近に接し、私はイベントのノウハウを逐一記憶に刻み込んだ。さらに2000年の「ハロージャパン! ハロー21! INぎふ」(岐阜県長良川競技場)、2004年KANSAI SUPER SHOW「アボルダージュ~接舷攻撃~」(日本武道館)、2005年日本国際博覧会 愛・地球博 オープニングイベント「とぶぞっ! いのちの祭り」(愛知 愛・地球博 長久手会場)、2007年KANSAI SUPER SHOW「太陽の船」(東京ドーム)、2010年KANSAI SUPER SHOW 「七人の侍」(東京 有明コロシアム)、2017年日本元気プロジェクト2017「スーパーエネルギー!!」(六本木ヒルズアリーナ)と、多くのショーに太鼓を起用してくださった。そしてなんと、2019年の日本元気プロジェクト2019「スーパーエネルギー!! 」(六本木ヒルズアリーナ)では、寛斎さんがデザインしたジャケットを着た私がモデルとなってランウェイを歩くという思いがけない体験までさせていただいた。これら一つ一つの経験の積み重ねがなければ、今、曲がりなりにも「イベントプロデューサー」を肩書きの一つとする私はいなかったかもしれない。

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(上記写真右:会場まで足を運んでくれた母)

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 寛斎エネルギーをたっぷり吸収し、わくわくしながら帰国した翌月。胸の熱気もさめやらない7月25日、前年の石川国民文化祭の太鼓イベント「ふる里の響き太鼓祭り」から生まれた太鼓コンサート「BEATS OF THE LIFE 壱刻壱響祭'93 リズムの生誕/生誕のリズム第1回を開催した。会場は松任総合運動公園に設けた野外の特設会場。出演は、当時、実力No1といわれた「時勝矢一路」、福井の「はぐるま太鼓」、兵庫の笛の名手高野巧、長野県の「水芭蕉太鼓」、ジャワのガムラン・グループ「ダルマ・ブダヤ」、「三ヶ日花火保存会」「炎太鼓」など約200名。スタッフは熱意だけで集まってくれたボランティア総勢160名。客席の設営や会場各所のサイン、受け付け、観客誘導、食事のまかないなど何もかもが手づくりで、誰もが初めて体験する運動会のようにはしゃぎ、あちこちで笑い声が起こっていた。この第1回目の集客は約3500人。大成功だった。嬉しかった。有り難かった。人の力、熱意の力、企画の力、勢いの力、ご支援の力、そして太鼓の力と、いろんな力の相乗を実感したコンサートだった。これが今年2,9回目の開催を迎える「白山国際太鼓エクスタジア」の原点であり、この時の運営態勢は30年が経過した現在まで引き継がれて、今も多くの皆さんに支えられ見守られている。

 そして1993年の三つ目の心のモニュメントは、林英哲さんの「第43回ベルリン芸術祭」への出演だった。芸術祭はドイツの首都ベルリンで、音楽、演劇、パフォーマンス、舞踊、文学、造形芸術などの分野で、一年を通じて展覧会や音楽会が実施されている。その中の一つである音楽祭は、ベルリン芸術祭における国際的なオーケストラ・フェスティバルであり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共催で行われている。最終日に出演された英哲さんは、一昨年に他界された東京藝術大学副学長だった松下功先生の作曲による、ベルリン芸術祭委嘱作品「飛天遊」をベルリン・フィルの若手メンバーで構成された「シャルーン・アンサンブル」と共演。世界初演の作品は雄々しく伸びやかで生命力に満ち、日本の太鼓がこうした場で堂々と演奏される時代になったことを、太鼓に携わる身として言葉にならない感銘を受けたできごとだった。9月23日だった。

 

 なお、日本国民の一人として、心よりの祝意を捧げた皇太子徳仁親王、小和田雅子のご成婚も、この年の6月9日だった。