昭利の一本道 [5] 「糧を持て!」

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 昭和37年4月、石川県立小松実業高等学校入学。将来、家業を継ぐなど思いもしなかったが、機械科と電機科の学科がある中、どんな職業に就いてもいずれ役に立つだろうと機械科を選んだ。部活動は柔道。その名残の「柔道耳」は、稽古熱心だった私のささやかな勲章だ。

 この年があけた昭和38年の始め、北陸は未曾有の大雪に見舞われた。1月から2月にかけて連日雪が降り続き、最大積雪深は、新潟県318cm、石川県181cm、福井県213cm。今もって観測史上最高の積雪量で、石川県では雪崩などによって死者24人、住宅の全半壊が537棟。幸いわが家は倒壊を免れたが、一階部分は雪に埋まり、家の出入りは二階の窓から。もちろん交通網は寸断状態で、列車でも30分ほどかかる学校まで、雪をかき分けながら4時間かけて徒歩で登校したのをおぼえている。とにかく雪によって生活の何もかもが不便を強いられ、当時の状況は「三八(サンパチ)豪雪」として今も語り草になっている。

  翌年の8月、小松実業高校野球部が第46回全国高等学校野球選手権大会に出場。日ごろから誰かとつるむのを好まず、昼休みには一人で吉川英治の時代小説を読んだりしていた私だが、野球部のエース福本くんとはなぜかウマが合い、大会出場は自分のことのように嬉しかった。だが810日の1回戦で、栃木の作新学院石川・吉成両投手の好投に力及ばず、8対3で敗退。福本くんは卒業後大学野球の盛んな駒沢大学に入ったが、2年後に肩の故障で帰郷。今から10年ほど前、病のために帰らぬ人となった。夏のシーズンが終わった後、二人で金沢にジョン・ウエインの映画を観に行き、アメリカらしいストレートな勧善懲悪の物語に感動して帰ったことが懐かしい。

 昭和38年といえば、東京オリンピックが開催された年。関連行事として上野の東京文化会館で開催された芸能展示での「御諏訪太鼓」や「助六太鼓」などの熱演がその後の太鼓文化発展の大きなきっかけとなったのだが、当時の私はそれほど太鼓芸に興味はなかった。むしろこの大会から正式種目に採用された柔道で、日本が三つの金メダルと一つの銀メダルを獲得したことに浮かれていた。そんな調子だから、あと1年半で卒業とわかっていてもその後の道は何も考えておらず、一日一日をただ無為に送っていたように思う。ただ一つ、物理の先生の言葉だけは今も胸に残っている。「人間、何ごとかを成すには糧(かて)を持て」と。糧とは武器。自分に唯一無二の武器があれば、きっと人生は拓けると。その意味が実感をともなって理解できたのは、もう少し後になってからだ。