昭利の一本道 [15] ふたつの挑戦

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 昭和60年(1985)ごろ、日本は1970年代から高まりをみせてきた地域活性化の機運が盛り上がり、東京一極集中を是正して地方に活力を分散しようという動きが活発になってきた。こうした状況は、一時は「地方の時代」という言葉が流行語になるほど声高に論じられたが、しかしその熱気が肝心の『地方』に伝わってきたのは、中央の動きが鎮静化してきた80年代になってからだった。ようやく自分たちの住む『地方』に、都会にはない『宝』があると気づいた地方の人々は、その『宝』=『独自性』を全国にアピールする一環として、『宝』を核にした『○○の里』なる文化施設を各地に建設しはじめた。そうしたニュースを耳にして、私は「これだ!」と思った。『太鼓』を核にした『太鼓の里』! 全国に太鼓屋も○○の里も数々あれど、まだ『太鼓の里』はない! 思い立ったら一気に頭に血がのぼる私は、完全に『里構想』のとりこになり、胸をワクワクさせた。だが、『里』をつくるにはどうしたらいい? 資金は? 敷地は? 里の中身は? 頭を冷やせば課題は山積しており、それまで『文化』というものに縁をもたず途方に暮れた私は、知人の中で唯一の『文化人』である挿絵画家の西のぼるさんに相談をもちかけた。今では講談社をはじめとする大手出版社の単行本や、日経、中日など新聞の連載小説の挿絵にひっぱりだこの西先生だが、当時は太鼓を運ぶダンボールに気軽にイラストを描いてくれるなど、同じ松任市に住む、気のおけない間柄の同級生だった。もちろん交友は現在も続いている。

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 私の思いを受けとめ、いろいろとアイデアを出してくれた西さんのおかげで、どうやら里構想のアウトラインが見えてきたのが61年。時を同じくして、当時の中西陽一石川県知事から、県の施設建設のため金沢に所有している土地を分けてほしいと申し入れがあった。金沢の土地とは、父が生前「子供たちのために」とわざわざ借金までして残した300坪の田んぼ。「こんな土地を残されても」と、用途もないまま手つかずとなっていたその土地を眺めて一時は父を恨んだものだが、なんと、そんな地面が役に立つとは。しかも、松任の浅野太鼓の近くにある空き地と交換してくれるという。まさに「渡りに船」とはこのこと。これが『太鼓の里』の用地となった。やはり、親とはありがたいものだ。

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 こうして『里』づくりを進める一方、浅野太鼓はもう一つ大きな挑戦に踏み切った。これまで手がけたことのない『鼉太鼓』の製作。鼉太鼓とは、平安時代に日本で発祥した雅楽の太鼓で、左方・右方の一対の太鼓に独特の華麗な意匠がほどこされている。今なら、大阪の四天王寺や、名古屋の熱田神宮などの拝殿に鎮座しているのを目にしたことがある人もいるだろう。胸のうちには、父亡き今、この太鼓を立派に完成させることができたら、きっと浅野太鼓のこれから行く道を切り開くきっかけになるだろう、との秘めた思いがあった。

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 太鼓とともに彫刻の技が出来栄えを左右するこの太鼓の工人として依頼したのは、父の代から腕を見込んでいた彫刻師の北川毅さん。まずは実物を所蔵している奈良の春日大社宝物殿を訪れ、製作の参考にした。私たちはさまざまな角度から一対の太鼓を観察し、スケッチをし、写真を撮った。それらの資料をもとに北川さんは図面を起こし、私は文献を繰って巴や龍、鳳凰、宝珠、火焔など多くの装飾や、色彩と数の法則など、太鼓の意匠に込められた意味を追った。その結果、ああ、なんと壮大な願いが凝縮した太鼓だろう。そこに見えたのは、五穀豊穣と極楽往生、平和と協調、そして万物の隆盛と再生。平安の人々がおよそ考えつく限りの祈りと願いが太鼓に隠されていた。「これは半端な気持ちではできない仕事だ」。私はあらためて臍を固めた。

 やがて2年後。総高3.5メートル、革面に三つ巴を描いた締太鼓を上昇する二等の龍が守り、燃えさかる火焔の頂点に黄金の日輪を掲げた左方太鼓が完成。その2年後、革面の二つ巴を抱いて二羽の鳳凰が飛翔し、頂点に銀色の月輪を掲げた右方太鼓が完成した。

 極彩色に彩られ、華やかさと厳かさを放つひと組の鼉太鼓。今は霊峰白山の麓で「加賀一之宮」と崇められ、全国におよそ3000の末社を従える白山神社の総本宮である『白山比咩神社』の拝殿で、堂々とした威容をたたえている。