昭利の一本道 [17] かつぎ桶太鼓の誕生

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 今や、かつぎ桶太鼓が全盛だ。30年ほど前には予想もしなかったことだ。かつぎ桶太鼓とは、細長く裁断したスギの板材を桶のように円柱状に組み、竹のタガで締めて胴とし、その両端に一枚革を当ててロープで締めた太鼓だ。ゆえに桶の胴の太鼓。じかに床に置いて打ったり、台に据えて立奏したりするが、今の主流はストラップを使って肩から吊り下げ、パフォーマンスを交えながら演奏するスタイルだ。
 かつぎ桶が世に広まるきっかけとなったのは、1990年、当時鼓童のメンバーだったレナード衛藤さんが作曲した『彩』の出現だった。この曲が初めて舞台で演奏された時、桶胴太鼓を肩から吊り下げ、自在に動き回りながら細かいリズムを連打する姿は、観客に新鮮な衝撃を与えた。太鼓は据え置くものという常識から解き放たれた、自由な太鼓の姿がそこにあった。
 だが、その前に、初めて桶胴太鼓をかついで動き回りながら演奏したプレイヤーがいる。レナードさんと同じく、当時の鼓童メンバーだった富田和明さんだ。85年、鼓童は初の『親子劇場公演』ツアーに出ることになり、演出をまかされたのが富田さん。前向き思考の富田さんは、何か新しい趣向のオープニングを、と考えた末、肩から吊った桶胴太鼓をたたきながらロビーから入場。リズムに合わせてツーステップで通路から舞台に上がり、5人の奏者が動き回りながら演奏を終えたら、またツーステップで退場するという演出を考案。曲名はそのものズバリの『縦横無尽』。観客は初めて見る演奏方法に一瞬あっけにとられたものの、躍動感のある雰囲気が大ウケだったとか。正確にはこれがかつぎ桶スタイルのデビューで、そのスタイルを取り入れたのが、前述のレナードさん。青森県弘前に伝わる『お山参詣』と「西馬音内盆踊り」の演奏スタイルとリズムにヒントを得た『彩』で韓国のサムルノリに使われるチャンゴとジョイントし、アクティブさと音楽性を併せ持った〝かつぎ桶奏法〟を確立した。 
 以来、かつぎ桶は急速な勢いで普及した。軽量・可動型によるパフォーマンスの多様化や軽快な音色、両面打ちに見せる技巧の美しさ、入手しやすい価格帯などが魅力だったと思われる。そして今やかつぎ桶は一つのブームを築き、和太鼓の舞台にかつぎ桶の演目は定番といえるほどになった。
 桶胴太鼓といえば、かつてはほとんどが祭り用だった。中でも東北や北陸の祭りには大小の桶胴が使われ、たとえば東北なら青森の『ねぶた』や弘前の『ねぷた』『お山参詣』、北秋田の『綴子大祭』、盛岡の『さんさ踊り』、岩手・宮城にまたがる『鹿踊り』など。北陸では今も伝わる農耕行事『虫送り』になくてはならない太鼓だ。

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 さらに70年の大阪万博で全国の郷土芸能が上演されたのを契機に、各地の町おこしや村おこしの手段として、地域に埋もれていた祭り太鼓や民俗芸能に目が向けられるようになった。80年代になると、地域や伝承にとらわれることなく太鼓を音楽の一つのジャンルとして取り組む〝創作太鼓〟のグループが各地で産声を上げ始めた。とくに威勢がよかったのが北海道登別において大場一刀さん率いる『北海太鼓』で、その影響を受けた周辺地域の太鼓グループからも大量に桶胴太鼓の注文が舞い込んだ。とりわけ口径2尺5寸、長さ4尺の太鼓に注文が殺到し、連日のように松任駅から北海道行きの貨車に太鼓を積み込んだ日々が思い出される。 (写真:「たいころじい 22巻」より)

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 また、革や木材についても研究を進めた。まず革については、それまでの太鼓は長く打ち続けると革が緩み、90分の舞台をもたせるのがせいぜいだった。「なんとかしてくれ」と太鼓を持ち込まれるのが歯痒く、長時間の演奏にも耐え得る太鼓をつくろうと強く思った。太鼓職人に対しては昔から深い差別意識があり、どんなに頑張っても「なんや、太鼓屋か」と軽くあしらわれた。そんな風潮も悔しく、どこの太鼓屋さんにも負けない商品をつくって浅野太鼓を全国区にしたかった。今思えば、この悔しさがすべてのバネだった。そして生皮の処理から、牛のどの部位の皮を使うか、革を張る際の仮張りと本張りの工夫など、昼も夜も考え続けた。(右写真:日経広告手帖より)
 木材については含水率や、気候や地域の違いによる収縮率にこだわり、革の緩まない太鼓をつくるには、木材の乾燥度合いが重要という結論に至った。数年後に乾燥機メーカーの力を借りて、ハイブリッドドライヤーを共同開発。木材の含水率9%を維持し、硬い胴と強い革を用いることで、革が緩まない太鼓づくりの技術を完成した。
 ほかにも舞台での存在感を高めるために、長胴太鼓の胴に取り付ける座金と釻のデザインに、人間国宝の刀匠による鍔の形にヒントを得て、まったくオリジナルの唐草模様のデザインを考案したり、それまでは鋲の部分で切り落としていた革の端を巻耳にしたりなど、新しい意匠の太鼓を生み出すことに夢中になっていた。