昭利の一本道 [4] 笠間中学時代

  • 投稿日:
  • by

 このところ、古代中国で武将たちが群雄割拠する吉川英治の「三国志」に親しんでいる。先日第三巻を読んでいる時に「月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧に戻らず」というくだりを見つけ、ふと、遠い昔の苦い思い出がよみがえった。

 0302.2022.aa1.jpg 0228.2022.aa1.jpg
(祖父 新太郎作)           (祖父 新太郎) 

 昭和34年(1959)、私は松任市立笠間中学校に入学した。笠間中では毎年秋に恒例のマラソン大会があり、全校生徒が参加することになっていた。マラソンコースは校庭を出て周囲のたんぼ道を一周後、ふたたびグラウンドに戻ってゴールインするというもので、途中のたんぼ道に沿って小川が流れていた。走るのが苦手な私は、なんとかマラソンを免れる方法はないかとあれこれ考え、小川の土手が背丈より高かったことを思い出した。当日、私は級友2人を誘い、他の生徒が走っている道の横、つまり小川の川床を水音をたてながら歩いていた。土手の陰に隠れて。しかし、こんな浅知恵、バレないわけがない。まもなく先生にみつかり、大目玉。あげく「こんな小ずるいことをする奴は、大人になってもろくなもんにならん」と言われた私はカーッと頭に血がのぼり、「大人になったら絶対偉い人になってみせる!」と、大いに先生を恨んだものだった。今思えばすべては我が身の浅はかな考えが招いた結果で、本当に偉い人なら途中で倒れてもちゃんとマラソンコースを走るだろう。後悔してもまさに「月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧に戻らず」だ。

 そのころ、家では父の酒癖の悪さが、家庭を暗くしていた。毎晩大酒を飲んでは些細なことで母をネチネチと責め立て、ある夜ついに我慢ができなかった私は、思いっきり父を玄関まで投げ飛ばした。父に手を出したのは後にも先にもその一度きりだったが、父の体が思いのほかに軽くて他愛なかったことに、なぜか哀れを感じたことを憶えている。

 とにかく、あまり良い思い出がない中学時代だった。

昭利の一本道 [3] 北陸の太鼓の黎明期

  • 投稿日:
  • by
0217.2022.aa2.jpg

 昭和32年(1957)、私は松任市立石川小学校の4年生になった。その2〜3年前から加賀温泉などの温泉地では宿泊客をもてなす余興として、太鼓を打つのが盛んになっていた。父の義雄は太鼓を配達に行くといっては、よく温泉街に向かっていた事を思い出す。

0217.2022.aa1.jpg

 太鼓の人気が上向きになっていたことは確かで、太鼓を求めたり、情報を持ち寄ったりしながら、多くの「太鼓打ち」が我が家に出入りするようになっていた。その中には北海道の登別で「北海太鼓」を創設した大場一刀さんや、福井県武生で「太鼓名人」といわれた水野さん、「三つ打ちの名人」玉村武さん、小松の「一人打ちの名人」豆腐屋の山下さん、後に「佐渡の國鬼太鼓座」の代表曲となった「三国の大太鼓」を編曲した下村の爺さんなど、今思えばそうそうたる面面が嬉々とした表情で父を訪ねてきた。そんな状況にともない、「つばめ返し」や「曲打ち」などの太鼓芸もすさまじい勢いで発展し、ついには石川、福井、富山の太鼓打ちが連携して「北陸三県太鼓愛好会」が発足。翌33年には「北陸三県太鼓協会」が設立された。

昭利の一本道 [2] 出生〜小学生時代

  • 投稿日:
  • by

0131.2022.a13.jpg

 生まれたのは昭和22年(1947)1月21日。石川県松任市福留町148番地で太鼓づくりを営む、父義雄、母小春のもとに次男として誕生。義雄37歳、小春35歳。義雄は家業のかたわら地域の消防団員を務め、仕事を済ますと宵の口から団員仲間と飲みに繰り出すのが常で、昭和59年(1984)に他界するまで夕食を共にした記憶はほとんどない。

0131.2022.a11.jpg

 その義雄に18歳で嫁いだ小春は福井県の鶴賀の生まれ。10歳の時に相次いで両親を亡くし、以来大阪に子守奉公に出るなど、だいぶ苦労を重ねたと聞く。嫁に来てからも苦労の連続で、遊び人気質で家事を顧みない義雄にかわり、一人で小作の田畑を耕し、太鼓用の皮をなめし、三人の子を育てた。今振り返ると幼児期のことはあまり憶えていないが、小柄な背中をかがめていつも農作業に精を出していた小春の姿と、少々の悪さをしても「あき、あき」と慈しんでくれた笑顔だけは心に残っている。

0131.2022.a12.jpg

 ものごころついてからのことは、断片的にではあるが、今もはっきり思い出シーンがいくつかある。当時、胴づくりの手伝いに来ていた二人の職人のうちの「コロ場の兄ちゃん」が東京に出て、三味線の胴の内側に綾彫りをほどこす機械をつくるのに成功したと聞いてみんなで喜んだこと。4年生の時に学校から帰ると大阪大学の文化人類学の先生という人がいて、我が家に残っていた古文書を一幅ずつカメラにおさめていたこと。「おじさん、何してるの?」とたずねると「この文書には300万円の価値がある。だからマイクロフィルムに保存するんだよ」と。「ふーん」と言ったものの、4年生の子供に300万円という金額は現実味がなく、それ以上の興味は湧かなかった。だから、後年、我が家が江戸時代の慶長年間から続く家だという何よりの証拠がそれらの文書に記されていたことを知り、おおいに驚いたものだ。また6年生のある日、早朝6時ごろに金沢の能作漆器店の主がやってきた時「おじさん、なんでこんなに朝早く来るんや?」とたずねると「早起きは三文の得だよ」と言われたこと。子供ながらも「そうか、早起きはトクなんだ」と妙に納得し、以後、その言葉はつねに私の商売の上での指針の一つとなった。注文を受けた太鼓が完成するたび、早朝5時でも6時でも納品に向かい、朝一番にまっさらの太鼓を受け取った客の嬉しそうな顔が、私のその日の力の源になった。

0131.2022.a14.jpg

 かつて近隣には数軒の太鼓屋があったというが、戦時中の物資統制により皮の入手が困難となり、次々に廃業。私が小学生のころには我が家「浅野太鼓店」ただ一軒だけとなっていた。とはいえ、太鼓は神楽太鼓か虫送りの桶胴太鼓が月に一つ売れれば良い方。当然暮らし向きは厳しく、両親は日々の糧を得るため、三味線の革張り、革靴の製造や修理、カバンの修理、井戸用手押しボンプの吸い込み口の革交換など、やれることは何でもやった。遊びたい盛りの年頃にもかかわらず私も手伝いを言いつけられることが多く、農作業や中でも皮の臭いに閉口しながら桶胴のロープ締めを手助けする作業はもっとも嫌な仕事だった。

昭利の一本道 [1] 序章 わが太鼓人生に悔いなし!

  • 投稿日:
  • by

 この世に生を受けて75年、家業である太鼓づくりの道に分け入って55年。この人生を一度きちんと振り返ることが、私のこれからの生き方に必要なことだと思った。

0121.2022.a1.jpg

 75年の間、と言っても、ものごころついてからの記憶に限られるが、数えきれない多くの人に出会った。その中には「太鼓の名手」といわれた人もあまたおり、今で言う「名手」とはひと味違った、聴き手の心にしみ入るような音色と技(バチ捌き)が耳と目に残っている。これからの太鼓文化を成熟させていくには、そうした名手の打つ太鼓について、私の知っている限りの情報をこの連載を読んでくださる方に伝えたい。また、1990年代からは太鼓イベントにも関わるようになり、それまで接点のなかった多くの文化人の知己を得た。写真家の稲越功一氏、照明デザイナーの藤本晴美氏、舞踏家の麿赤兒氏、ファッションデザイナーの山本寛斎氏、詩人の大岡信氏・・・数え挙げればきりがない。それぞれの道の頂点にいるそれらの人々の感性が、今の私を作ってきた。私が太鼓づくりのうえでよりどころにしてきた観音さま、すなわち「音」を「観る」仏さまに朝夕手を合わせるのが日課だが、近ごろは観音さまに参るたび、そうした数知れぬ出会いの有り難みをあらためて感じている。歳をとったということか。

 私の人生の原動力の一つだったのは、皮に携わる職業の人なら絶えず心のどこかにわだかまる「同和」の問題だった。世間の人々から、社会から、「まっとうな仕事」と認められるには、同和の概念から脱却しなければ。その一心で、世界に誇れる太鼓づくりに没頭した。「田舎の小さな太鼓屋に甘んじていたくない」「銀行の融資も受けられない貧乏から脱却したい」「浅野太鼓を有名にしたい」「どこからも後ろ指をさされない優良企業にしたい」。そうした思いで、ただただ太鼓づくりの一本道を走り続けてきた。そして確かに、自分なりの形を残したと自負している。

 西のぼる先生に指導を仰ぎ、日本で唯一の太鼓専門情報誌を出版、太鼓コンサートのプロデュースは海外にも及ぶ。女性だけの太鼓チーム「焱太鼓」は立ち上げから34年、メンバーチェンジしながら今も活躍している。まさに「わが太鼓人生悔いなし!」だ。

 ただ、政治力も駆け引きの才もなく、世辞や追従が苦手、気の利いたセリフ一つ言えないつきあい下手ゆえ、ご厚意をいただきながら不義理を重ねたことも多いと思う。そんな皆さまには、大変勝手ながら、この連載の場を借りて深くお詫びを申し上げます。