昭利の一本道 [10] ブビンガと工場の機械化

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 太鼓の胴はケヤキを最上の材とする。材質が重硬で堅牢、そして優美な木目模様を持つからだ。重い材質は軽い材質より音を多く跳ね返す性質を持っている。太鼓はバチで革を打たれると同時に胴内の空気が振動し、音の発生源(バチで革を打った音)に共鳴する。振動した空気は、壁、つまり胴に跳ね返って反響するが、この時、壁が硬いほど音は跳ね返りを多く繰り返して反響する時間が長くなり、いわゆる「残響」を生じる。また堅牢さは木質の粘りとなって革を留める鋲を強い力でつかみ、強烈な打撃に対して耐久力を発揮する。そして美しく気品のある木目は、まさに木材の王様たるや、舞台の上でどっしりした存在感を放つ。それゆえ、ケヤキ製の太鼓は人気が高く、昭和52、53年ごろからは口径5尺(約1.5m)や6尺(約1.8m)の大太鼓もケヤキ製を望む注文が増えた。

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 そうした日々、毎朝午前7時きっかり、きれいに髪を整え、きちんとした身なりで高級車のクラウンに乗って工場の前を通る人物がいた。近くに倉庫のある川吉木材の社長だった。毎朝の定例行事なので、いつしか言葉を交わす仲となり、話は自然に木材のことに。本来、家具材や建築用材として需要の高いケヤキが、太鼓の材料としても最良なこと。そのケヤキが、とくに幹の直径1mを越す大径木が近ごろ品薄になってきたことなど、ついついボヤいた。本当に、たわいのない愚痴のつもりだった。ところが、社長からこともなげに返ってきた言葉にびっくり。「それなら、ケヤキに材質が酷似したブビンガを使えばいい」と。ブビンガ! 初めて聞く木の名だった。アフリカ産のマメ科の高木。直径3m、樹高は30m以上にもなり、材質は重硬。耐摩耗性と強度が高く、ワインレッド系の深い色調と美しい木目が特徴とのこと。まさに求めている木材にドンピシャではないか! それでも半信半疑の私に「近々、大阪南港に荷揚げする木がある。

見に行くか」と社長。二つ返事で対面した巨木は、樹齢600年近く。まさに「神が宿る」と形容したくなるほどの堂々とした姿を岸壁に横たえていた。

 これがブビンガとの出会い。はじめは予想以上の重さと硬さで扱いに手こずることもあったが、いくつか太鼓をつくるうちにコツを会得。以後、浅野太鼓になくてはならない原木となった。今ではブビンガの存在は広く一般に知られ、その強靱さと堅牢さゆえに祭礼で巡行する山車の車輪などにも用いられているようだ。まったく川吉社長に感謝、感謝だ。

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 同時に、大太鼓製造工程の動力化を進めたのも53年。10年ほど前から胴の中ぐり(輪切りにした原木の内部を刳りぬき、太鼓の胴の形を整える作業)に動力を導入していたものの、機械にかかるのはせいぜい口径2尺5寸(約75cm)程度の中太鼓まで。それ以上の大きな太鼓の中ぐりはすべて手作業。職人二人が毎日チョンナで削り、3カ月かけてようやく胴の形をつくっていた。これでは受注に対応できるわけもなく、太鼓づくりの省力化という日本で初めての技術開拓に着手。まったく手さぐりではあったが、幸い石川は輪島塗や山中漆器など木工芸が盛んで、木を削る機械においては多くの n技術を有していた。それらの機械メーカーによびかけて工夫を重ね、ついに大型の旋盤加工機を開発。どんな大きな太鼓の注文にも対応できるようになった。こうして、ブビンガと胴の中ぐり機のおかげで、後に浅野太鼓は日本の大太鼓のおよそ7割の生産高を占めることになる。

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 この年4月、有限会社浅野太鼓楽器店を、株式会社浅野太鼓楽器店に組織変更した。従業員は家族を含めても10名足らずだったが、株式会社になったことで企業としてようやく一人前になったと思うと嬉しかった。

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 昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪万博という日本の2大イベントのおかげで明らかに追い風が吹いてきた太鼓芸能に、52年、さらに新たな展開が訪れた。静岡県御殿場市で社会福祉事業を営んでいた『社会福祉法人富岳会』が、心身に障害がある人々の活動に、日本で初めて太鼓を取り入れた。障害の機能回復と、利用者の社会生活への適応を目ざすという。

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理事長の山内令子氏によれば、たまたま施設で開いた納涼盆踊りで地域の青年団員が太鼓を打つのを見て、利用者の一人が突然櫓に上り、嬉々として真似をする光景を見て「これだ!」とひらめいたという。太鼓を打つことは集中力を養い、身体を使うことはリハビリにつながる。太鼓はまったく経験のない令子氏だったが、長野県岡谷市で『御諏訪太鼓』を主宰していた小口大八氏のもとに足繁く通い、まずご自身が指導を受け、施設に戻って職員に伝え、職員がさらに利用者に伝える。遠回りな指導法だったが、令子氏は根気よく続けられた。やがて職員と障害のある利用者による合同チーム『富岳太鼓』を結成。現在は令子氏の後を継いで二代目理事長となられた長男の剛氏がチームを率い、自主公演や他施設への慰問など、年間約100公演を実施されている。

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 一方、東京では日本の伝統芸能の殿堂である『国立劇場』で、太鼓だけの公演『日本の太鼓』がスタート。当時、国立劇場芸能部のプロデューサーだった西角井正大氏のお骨折りのおかげで実現したもので、第一回の出演団体は、石川県の『御陣乗太鼓』、東京の『助六太鼓』、長野県の『御諏訪太鼓』など。以後『日本の太鼓』公演は、昨年の特別企画公演まで44年にわたって開催されてきた。日本の太鼓文化がここまで成長してきた要因の一つとして、この公演が果たした功績は計り知れない。

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 また、『日本の太鼓』については、私もさまざまな面から関わらせていただいた。毎回のテーマに合わせた出演団体の推薦や、舞台で使用する太鼓のレンタル協力のほか、自前で育てた女流太鼓チーム『炎太鼓』や青少年チーム『サスケ』も何度か舞台に立たせていただいた。西角井氏の後任としてロデューサーに就任した茂木仁史氏(現在は国立劇場おきなわ調査要請課長)とも親交を深め、今も年に数回は杯を交わす仲だ。

 

 

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 田耕氏との長いつきあいが始まった同じ年、大阪府吹田市で日本万国博覧会が開催された。通称『大阪万博』。岡本太郎氏がデザインした巨大なオブジェ『太陽の塔』をシンボルとしたテーマゾーンの、地上、地下、空中の3層にわたる展示空間で、博覧会のテーマである『人類の進歩と調和』が、世界77カ国と四つの国際機関による88のパビリオンで表現された。中でも人類初の有人月着陸ロケット『アポロ11号』が月から持ち帰った『月の石』を展示したアメリカ館は長い行列が絶えず、人波に押されてゆっくり石を眺めることもできなかった。そして太陽の塔の背後に設けられた『お祭り広場』では、世界各国や国内各地の芸能、舞踊などが毎日披露された。ここでもっとも人気を集めたのが和太鼓。183日間にわたる博覧会開催期間中、北は北海道の『蝦夷太鼓』、南は熊本の『人吉臼太鼓踊り』まで、全国の30あまりの伝統太鼓や神楽が公開された。期間中に博覧会を訪れた入場者はのべ約6422万人というから、そのうち3分の1がお祭り広場を覗いたとして、およそ2140万の人が太鼓や太鼓を伴奏にした芸能を観覧したことになる。こうして太鼓が、また少し裾野を広げた。

0520.2022.a4.jpg 0520.2022.a3.jpg (写真左:月の石)

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 太鼓への追い風は、我が家の背中をも押してくれた。家内工業に毛の生えた程度の規模で営んでいた浅野太鼓店を、この年、『有限会社浅野太鼓楽器店』として法人化。翌46年に結婚。47年には鬼太鼓座の田氏から太鼓製作だけでなく、太鼓指導の相談も受けるようになっていた。当時、鬼太鼓座は太鼓集団と銘打っていたものの、実は太鼓を打てるメンバーはほとんどいなかった。そんな実情をなんとなく察していたので、北陸に伝わるリズムをベースした伝統太鼓では右に出る者のない名人で、以前から我が家に出入りしていた下村の爺さん(下村圭一)に指導を打診した。最初はあまり乗り気ではない様子だったが、私と連れ立ち、鬼太鼓座が寝泊まりしていた佐渡に向かうと、真剣な表情の若者たちに心を動かされたのか、快く引き受けてくれた。

 その後も、これぞと思う太鼓打ちを何人も紹介した。今では多くが他界してしまったが、時折、当時のメンバーと昔語りをする機会があると、懐かしい名前が飛び出すことがある。

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 そして昭和50年(1975)、私は鬼太鼓座の初めてのアメリカ渡航に同行。日本とは気温や湿度が大きく異なるアラバマ州のオーバーン市やマサチューセッツ州のボストン市など、行く先々で太鼓の革の張力をチューニングした。私にとっても初めてのアメリカ上陸で、あれもこれも記憶に残っているが、ことに鬼太鼓座初参加のボストンマラソンで、ブレデンシャルビルの前のゴールに次々にゴールインしたメンバーが、最後の力を振り絞って勢いよく太鼓を打ち鳴らして観衆にアピールした光景は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。

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昭利の一本道 [7] 田耕氏との出会い

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 こうして太鼓が全国的に注目され始めた昭和45年のある夜。見知らぬ男が、ふらりと我が家にやってきた。無遠慮な視線で工場の中を眺め回すと、いきなり世界地図を広げ「太鼓で世界を回る。太鼓一式つくってもらいたい」と男は言った。洋服の上に綿入れのドテラを羽織ったうさんくさい身なりで、どんな職業なのか見当もつかない男だったが、その口から出た言葉は父や私の度肝を抜くには充分だった。「太鼓を演奏して世界を回るとは、何を夢のようなことを」とあきれる反面、「そんなことが実現したら、なんと素晴らしいだろう」と私たちは男を見つめた。そして次の言葉にまた私たちは驚いた。「ただし、金はない」と。

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聞けば、我が家に来る前に東京浅草にある太鼓の老舗店を訪れ、同じく「金はないが太鼓が欲しい」と談判したところ、あっけなく断られたという。それはそうだろう。そこで男は考えあぐね、以前小耳にはさんだ北陸で細々と太鼓をつくっている我が家のことを思い出し、その足で松任までやってきたそうだ。男の突然の無謀な申し出に父はしばらく思案していたが、やがて「よかろう。太鼓をする人間に悪人はいない」と、出世払いを約束させて太鼓一式つくることを引き受けた。はらはらしながらなりゆきを見ていた私も、父の言葉にほっとする思いがした。本当にこの男の言う通り、世界中に浅野の太鼓が鳴り響く日が来たら、私の未来も変わる気がしたからだ。そしてその予感は、やがて的中することになる。

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(写真左より:田耕氏、永六輔氏)

男の名は田耕(でんたがやす)。初めて日本の太鼓を海外の舞台で披露し、小澤征爾氏や石井眞木氏など世界的に知られる音楽家たちの目を太鼓に向けさせた人物。そして現在の舞台芸能としての太鼓演奏の礎を創り上げた『佐渡の國鬼太鼓座』の主宰者。こうしてはからずも彼らの太鼓をつくったことが契機となり、我が家も新しい試みに次々と挑戦することになった。まず手始めに、サントリー株式会社がスポンサーとなって鬼太鼓座に寄贈したケヤキの3尺8寸の大太鼓を製作。続いて同じく寄贈のケヤキ長胴2尺4寸の二番太鼓、2尺3寸の三番太鼓。さらに鬼太鼓座自前の6尺の桶胴太鼓、3尺の平太鼓と、次々に大型の太鼓をつくったことが新聞などで話題になり、翌年には北海道登別の第一滝本館や東京都府中市の大國魂神社など、それまで手の届かなかった依頼主からの注文が立て続けに舞い込むようになった。また田氏を介して、鬼太鼓座の立ち上げにかかわった放送作家の永六輔氏や、民俗学者の宮本常一氏、サントリー社長の佐治敬三氏、俳優の小沢昭一氏など、それまでまったく接点のなかった多くの文化人の知己を得ることになった。それらの人々と交流を重ねるにつれて、機械のことや太鼓づくりの知識はあっても文化や教養にはとんと縁遠かった私の無知な脳みそは、人間が豊かに生きていくためには心にも栄養が必要なことを知った。

 振り返れば、出世払いと約束した太鼓一式の代金は完済されないままに田氏は逝ってしまったが、私は金銭に換えがたい多くの宝を田氏からいただいた。

昭利の一本道 [6] 太鼓ブームの黎明期

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 昭和40年3月、小松実業高等学校を卒業。家業の太鼓づくりはすでに二歳上の兄が手伝っており、月に二つも売れれば「御の字」の作業場にこれ以上人手は要らなかった。さて、自分はどうしよう。あれこれ思案し、社会勉強を兼ねて繊維関係の会社に就職。当時の石川県は、のちに『繊維王国』として全国にその名をとどろかす繊維産業の成長期で、織元や撚糸など繊維関係の会社はどこも好景気だった。幸い実業高校で多少なりとも機械にふれていたこともあり、すんなり仕事になじむことができた。それからの3年間が、私の人生の中で唯一「他人の飯を食った」時代だった。この期間の経験や職場で感じたさまざまな矛盾などが、やがて自分が経営する側に立った時に大いに役立った。貴重な体験だった。

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  (写真左:部落に数件あった太鼓屋さんの中橋さんが作った太鼓)

 この年、2年前の東京オリンピックを自宅で観覧するためほとんどの家庭に普及していたテレビで、NHKから『ふる里の歌まつり』という番組がスタート。弁舌爽やかな宮田輝 司会で、全国各地に出向き、各地に古くから伝わる郷土芸能や年中行事を中心に、ふるさと民謡や風俗、習慣、時々の話題を織り込みながら、地元出演者とゲストが歌や芸能を繰り広げるという内容で、長野の『御諏訪太鼓』や東京の『助六太鼓』、福岡の『小倉祇園太鼓』、そして石川の『御陣乗太鼓』などが相次いで出演。そんな中で一番記憶に残っているのが「鹿児島の棒踊り」でした。今でも是非呼んでみたい芸能でした。また福岡の『嚢祖太鼓』が文化庁の芸術祭にかかわる催しに出演したとのニュースも流れ、そんな影響もあってか全国的に徐々に太鼓人気が高まった。おかげで我が家も少しずつ注文が増え、22歳で会社勤めをやめて家業に入った。皮なめしにはじまり、革の仮張り、本張りなど、父の厳しい指導のもとにひと通りの技術をたたき込まれ、手空きの時間には加賀温泉郷の旅館へ御用聞きに。世はまさに高度経済成長期のまっただ中。加賀の各旅館には連日、全国から大型バスで遊興客が訪れた。その客をもてなす「お迎え太鼓」や宴会での「お座敷太鼓」、果ては温泉街のストリップ劇場でストリップと太鼓が共演する趣向まで現れ、どこの宿でも太鼓を欲しがった。有り難いブームだった。こうした温泉太鼓は、やがて加賀温泉から北陸一帯へ、そして全国の温泉地に広がり、やがて日本の太鼓文化の基礎をなして行った。今も太鼓演奏を呼び物の一つにしている旅館もある。

昭利の一本道 [5] 「糧を持て!」

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 昭和37年4月、石川県立小松実業高等学校入学。将来、家業を継ぐなど思いもしなかったが、機械科と電機科の学科がある中、どんな職業に就いてもいずれ役に立つだろうと機械科を選んだ。部活動は柔道。その名残の「柔道耳」は、稽古熱心だった私のささやかな勲章だ。

 この年があけた昭和38年の始め、北陸は未曾有の大雪に見舞われた。1月から2月にかけて連日雪が降り続き、最大積雪深は、新潟県318cm、石川県181cm、福井県213cm。今もって観測史上最高の積雪量で、石川県では雪崩などによって死者24人、住宅の全半壊が537棟。幸いわが家は倒壊を免れたが、一階部分は雪に埋まり、家の出入りは二階の窓から。もちろん交通網は寸断状態で、列車でも30分ほどかかる学校まで、雪をかき分けながら4時間かけて徒歩で登校したのをおぼえている。とにかく雪によって生活の何もかもが不便を強いられ、当時の状況は「三八(サンパチ)豪雪」として今も語り草になっている。

  翌年の8月、小松実業高校野球部が第46回全国高等学校野球選手権大会に出場。日ごろから誰かとつるむのを好まず、昼休みには一人で吉川英治の時代小説を読んだりしていた私だが、野球部のエース福本くんとはなぜかウマが合い、大会出場は自分のことのように嬉しかった。だが810日の1回戦で、栃木の作新学院石川・吉成両投手の好投に力及ばず、8対3で敗退。福本くんは卒業後大学野球の盛んな駒沢大学に入ったが、2年後に肩の故障で帰郷。今から10年ほど前、病のために帰らぬ人となった。夏のシーズンが終わった後、二人で金沢にジョン・ウエインの映画を観に行き、アメリカらしいストレートな勧善懲悪の物語に感動して帰ったことが懐かしい。

 昭和38年といえば、東京オリンピックが開催された年。関連行事として上野の東京文化会館で開催された芸能展示での「御諏訪太鼓」や「助六太鼓」などの熱演がその後の太鼓文化発展の大きなきっかけとなったのだが、当時の私はそれほど太鼓芸に興味はなかった。むしろこの大会から正式種目に採用された柔道で、日本が三つの金メダルと一つの銀メダルを獲得したことに浮かれていた。そんな調子だから、あと1年半で卒業とわかっていてもその後の道は何も考えておらず、一日一日をただ無為に送っていたように思う。ただ一つ、物理の先生の言葉だけは今も胸に残っている。「人間、何ごとかを成すには糧(かて)を持て」と。糧とは武器。自分に唯一無二の武器があれば、きっと人生は拓けると。その意味が実感をともなって理解できたのは、もう少し後になってからだ。

昭利の一本道 [4] 笠間中学時代

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 このところ、古代中国で武将たちが群雄割拠する吉川英治の「三国志」に親しんでいる。先日第三巻を読んでいる時に「月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧に戻らず」というくだりを見つけ、ふと、遠い昔の苦い思い出がよみがえった。

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(祖父 新太郎作)           (祖父 新太郎) 

 昭和34年(1959)、私は松任市立笠間中学校に入学した。笠間中では毎年秋に恒例のマラソン大会があり、全校生徒が参加することになっていた。マラソンコースは校庭を出て周囲のたんぼ道を一周後、ふたたびグラウンドに戻ってゴールインするというもので、途中のたんぼ道に沿って小川が流れていた。走るのが苦手な私は、なんとかマラソンを免れる方法はないかとあれこれ考え、小川の土手が背丈より高かったことを思い出した。当日、私は級友2人を誘い、他の生徒が走っている道の横、つまり小川の川床を水音をたてながら歩いていた。土手の陰に隠れて。しかし、こんな浅知恵、バレないわけがない。まもなく先生にみつかり、大目玉。あげく「こんな小ずるいことをする奴は、大人になってもろくなもんにならん」と言われた私はカーッと頭に血がのぼり、「大人になったら絶対偉い人になってみせる!」と、大いに先生を恨んだものだった。今思えばすべては我が身の浅はかな考えが招いた結果で、本当に偉い人なら途中で倒れてもちゃんとマラソンコースを走るだろう。後悔してもまさに「月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧に戻らず」だ。

 そのころ、家では父の酒癖の悪さが、家庭を暗くしていた。毎晩大酒を飲んでは些細なことで母をネチネチと責め立て、ある夜ついに我慢ができなかった私は、思いっきり父を玄関まで投げ飛ばした。父に手を出したのは後にも先にもその一度きりだったが、父の体が思いのほかに軽くて他愛なかったことに、なぜか哀れを感じたことを憶えている。

 とにかく、あまり良い思い出がない中学時代だった。

昭利の一本道 [3] 北陸の太鼓の黎明期

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 昭和32年(1957)、私は松任市立石川小学校の4年生になった。その2〜3年前から加賀温泉などの温泉地では宿泊客をもてなす余興として、太鼓を打つのが盛んになっていた。父の義雄は太鼓を配達に行くといっては、よく温泉街に向かっていた事を思い出す。

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 太鼓の人気が上向きになっていたことは確かで、太鼓を求めたり、情報を持ち寄ったりしながら、多くの「太鼓打ち」が我が家に出入りするようになっていた。その中には北海道の登別で「北海太鼓」を創設した大場一刀さんや、福井県武生で「太鼓名人」といわれた水野さん、「三つ打ちの名人」玉村武さん、小松の「一人打ちの名人」豆腐屋の山下さん、後に「佐渡の國鬼太鼓座」の代表曲となった「三国の大太鼓」を編曲した下村の爺さんなど、今思えばそうそうたる面面が嬉々とした表情で父を訪ねてきた。そんな状況にともない、「つばめ返し」や「曲打ち」などの太鼓芸もすさまじい勢いで発展し、ついには石川、福井、富山の太鼓打ちが連携して「北陸三県太鼓愛好会」が発足。翌33年には「北陸三県太鼓協会」が設立された。

昭利の一本道 [2] 出生〜小学生時代

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 生まれたのは昭和22年(1947)1月21日。石川県松任市福留町148番地で太鼓づくりを営む、父義雄、母小春のもとに次男として誕生。義雄37歳、小春35歳。義雄は家業のかたわら地域の消防団員を務め、仕事を済ますと宵の口から団員仲間と飲みに繰り出すのが常で、昭和59年(1984)に他界するまで夕食を共にした記憶はほとんどない。

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 その義雄に18歳で嫁いだ小春は福井県の鶴賀の生まれ。10歳の時に相次いで両親を亡くし、以来大阪に子守奉公に出るなど、だいぶ苦労を重ねたと聞く。嫁に来てからも苦労の連続で、遊び人気質で家事を顧みない義雄にかわり、一人で小作の田畑を耕し、太鼓用の皮をなめし、三人の子を育てた。今振り返ると幼児期のことはあまり憶えていないが、小柄な背中をかがめていつも農作業に精を出していた小春の姿と、少々の悪さをしても「あき、あき」と慈しんでくれた笑顔だけは心に残っている。

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 ものごころついてからのことは、断片的にではあるが、今もはっきり思い出シーンがいくつかある。当時、胴づくりの手伝いに来ていた二人の職人のうちの「コロ場の兄ちゃん」が東京に出て、三味線の胴の内側に綾彫りをほどこす機械をつくるのに成功したと聞いてみんなで喜んだこと。4年生の時に学校から帰ると大阪大学の文化人類学の先生という人がいて、我が家に残っていた古文書を一幅ずつカメラにおさめていたこと。「おじさん、何してるの?」とたずねると「この文書には300万円の価値がある。だからマイクロフィルムに保存するんだよ」と。「ふーん」と言ったものの、4年生の子供に300万円という金額は現実味がなく、それ以上の興味は湧かなかった。だから、後年、我が家が江戸時代の慶長年間から続く家だという何よりの証拠がそれらの文書に記されていたことを知り、おおいに驚いたものだ。また6年生のある日、早朝6時ごろに金沢の能作漆器店の主がやってきた時「おじさん、なんでこんなに朝早く来るんや?」とたずねると「早起きは三文の得だよ」と言われたこと。子供ながらも「そうか、早起きはトクなんだ」と妙に納得し、以後、その言葉はつねに私の商売の上での指針の一つとなった。注文を受けた太鼓が完成するたび、早朝5時でも6時でも納品に向かい、朝一番にまっさらの太鼓を受け取った客の嬉しそうな顔が、私のその日の力の源になった。

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 かつて近隣には数軒の太鼓屋があったというが、戦時中の物資統制により皮の入手が困難となり、次々に廃業。私が小学生のころには我が家「浅野太鼓店」ただ一軒だけとなっていた。とはいえ、太鼓は神楽太鼓か虫送りの桶胴太鼓が月に一つ売れれば良い方。当然暮らし向きは厳しく、両親は日々の糧を得るため、三味線の革張り、革靴の製造や修理、カバンの修理、井戸用手押しボンプの吸い込み口の革交換など、やれることは何でもやった。遊びたい盛りの年頃にもかかわらず私も手伝いを言いつけられることが多く、農作業や中でも皮の臭いに閉口しながら桶胴のロープ締めを手助けする作業はもっとも嫌な仕事だった。

昭利の一本道 [1] 序章 わが太鼓人生に悔いなし!

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 この世に生を受けて75年、家業である太鼓づくりの道に分け入って55年。この人生を一度きちんと振り返ることが、私のこれからの生き方に必要なことだと思った。

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 75年の間、と言っても、ものごころついてからの記憶に限られるが、数えきれない多くの人に出会った。その中には「太鼓の名手」といわれた人もあまたおり、今で言う「名手」とはひと味違った、聴き手の心にしみ入るような音色と技(バチ捌き)が耳と目に残っている。これからの太鼓文化を成熟させていくには、そうした名手の打つ太鼓について、私の知っている限りの情報をこの連載を読んでくださる方に伝えたい。また、1990年代からは太鼓イベントにも関わるようになり、それまで接点のなかった多くの文化人の知己を得た。写真家の稲越功一氏、照明デザイナーの藤本晴美氏、舞踏家の麿赤兒氏、ファッションデザイナーの山本寛斎氏、詩人の大岡信氏・・・数え挙げればきりがない。それぞれの道の頂点にいるそれらの人々の感性が、今の私を作ってきた。私が太鼓づくりのうえでよりどころにしてきた観音さま、すなわち「音」を「観る」仏さまに朝夕手を合わせるのが日課だが、近ごろは観音さまに参るたび、そうした数知れぬ出会いの有り難みをあらためて感じている。歳をとったということか。

 私の人生の原動力の一つだったのは、皮に携わる職業の人なら絶えず心のどこかにわだかまる「同和」の問題だった。世間の人々から、社会から、「まっとうな仕事」と認められるには、同和の概念から脱却しなければ。その一心で、世界に誇れる太鼓づくりに没頭した。「田舎の小さな太鼓屋に甘んじていたくない」「銀行の融資も受けられない貧乏から脱却したい」「浅野太鼓を有名にしたい」「どこからも後ろ指をさされない優良企業にしたい」。そうした思いで、ただただ太鼓づくりの一本道を走り続けてきた。そして確かに、自分なりの形を残したと自負している。

 西のぼる先生に指導を仰ぎ、日本で唯一の太鼓専門情報誌を出版、太鼓コンサートのプロデュースは海外にも及ぶ。女性だけの太鼓チーム「焱太鼓」は立ち上げから34年、メンバーチェンジしながら今も活躍している。まさに「わが太鼓人生悔いなし!」だ。

 ただ、政治力も駆け引きの才もなく、世辞や追従が苦手、気の利いたセリフ一つ言えないつきあい下手ゆえ、ご厚意をいただきながら不義理を重ねたことも多いと思う。そんな皆さまには、大変勝手ながら、この連載の場を借りて深くお詫びを申し上げます。