昭利の一本道 [15] ふたつの挑戦

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 昭和60年(1985)ごろ、日本は1970年代から高まりをみせてきた地域活性化の機運が盛り上がり、東京一極集中を是正して地方に活力を分散しようという動きが活発になってきた。こうした状況は、一時は「地方の時代」という言葉が流行語になるほど声高に論じられたが、しかしその熱気が肝心の『地方』に伝わってきたのは、中央の動きが鎮静化してきた80年代になってからだった。ようやく自分たちの住む『地方』に、都会にはない『宝』があると気づいた地方の人々は、その『宝』=『独自性』を全国にアピールする一環として、『宝』を核にした『○○の里』なる文化施設を各地に建設しはじめた。そうしたニュースを耳にして、私は「これだ!」と思った。『太鼓』を核にした『太鼓の里』! 全国に太鼓屋も○○の里も数々あれど、まだ『太鼓の里』はない! 思い立ったら一気に頭に血がのぼる私は、完全に『里構想』のとりこになり、胸をワクワクさせた。だが、『里』をつくるにはどうしたらいい? 資金は? 敷地は? 里の中身は? 頭を冷やせば課題は山積しており、それまで『文化』というものに縁をもたず途方に暮れた私は、知人の中で唯一の『文化人』である挿絵画家の西のぼるさんに相談をもちかけた。今では講談社をはじめとする大手出版社の単行本や、日経、中日など新聞の連載小説の挿絵にひっぱりだこの西先生だが、当時は太鼓を運ぶダンボールに気軽にイラストを描いてくれるなど、同じ松任市に住む、気のおけない間柄の同級生だった。もちろん交友は現在も続いている。

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 私の思いを受けとめ、いろいろとアイデアを出してくれた西さんのおかげで、どうやら里構想のアウトラインが見えてきたのが61年。時を同じくして、当時の中西陽一石川県知事から、県の施設建設のため金沢に所有している土地を分けてほしいと申し入れがあった。金沢の土地とは、父が生前「子供たちのために」とわざわざ借金までして残した300坪の田んぼ。「こんな土地を残されても」と、用途もないまま手つかずとなっていたその土地を眺めて一時は父を恨んだものだが、なんと、そんな地面が役に立つとは。しかも、松任の浅野太鼓の近くにある空き地と交換してくれるという。まさに「渡りに船」とはこのこと。これが『太鼓の里』の用地となった。やはり、親とはありがたいものだ。

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 こうして『里』づくりを進める一方、浅野太鼓はもう一つ大きな挑戦に踏み切った。これまで手がけたことのない『鼉太鼓』の製作。鼉太鼓とは、平安時代に日本で発祥した雅楽の太鼓で、左方・右方の一対の太鼓に独特の華麗な意匠がほどこされている。今なら、大阪の四天王寺や、名古屋の熱田神宮などの拝殿に鎮座しているのを目にしたことがある人もいるだろう。胸のうちには、父亡き今、この太鼓を立派に完成させることができたら、きっと浅野太鼓のこれから行く道を切り開くきっかけになるだろう、との秘めた思いがあった。

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 太鼓とともに彫刻の技が出来栄えを左右するこの太鼓の工人として依頼したのは、父の代から腕を見込んでいた彫刻師の北川毅さん。まずは実物を所蔵している奈良の春日大社宝物殿を訪れ、製作の参考にした。私たちはさまざまな角度から一対の太鼓を観察し、スケッチをし、写真を撮った。それらの資料をもとに北川さんは図面を起こし、私は文献を繰って巴や龍、鳳凰、宝珠、火焔など多くの装飾や、色彩と数の法則など、太鼓の意匠に込められた意味を追った。その結果、ああ、なんと壮大な願いが凝縮した太鼓だろう。そこに見えたのは、五穀豊穣と極楽往生、平和と協調、そして万物の隆盛と再生。平安の人々がおよそ考えつく限りの祈りと願いが太鼓に隠されていた。「これは半端な気持ちではできない仕事だ」。私はあらためて臍を固めた。

 やがて2年後。総高3.5メートル、革面に三つ巴を描いた締太鼓を上昇する二等の龍が守り、燃えさかる火焔の頂点に黄金の日輪を掲げた左方太鼓が完成。その2年後、革面の二つ巴を抱いて二羽の鳳凰が飛翔し、頂点に銀色の月輪を掲げた右方太鼓が完成した。

 極彩色に彩られ、華やかさと厳かさを放つひと組の鼉太鼓。今は霊峰白山の麓で「加賀一之宮」と崇められ、全国におよそ3000の末社を従える白山神社の総本宮である『白山比咩神社』の拝殿で、堂々とした威容をたたえている。

昭利の一本道 [14] 御陣乗太鼓のこと

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 前章で父のことを記し、ふと、同じ世代に生きた『御陣乗太鼓』の池田庄作さんを連想したので、ここに紹介する。 

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 北陸は全国的にみても太鼓の盛んな土地柄だ。石川県の御陣乗太鼓や『加賀太鼓』、福井県の『越前権兵衛太鼓』『明神ばやし』などは、広く名が知られている。中でも太鼓ブームに先がけて、いち早く海外公演や映画出演を果たしたのが御陣乗太鼓だ。能登半島の先端、輪島の名舟地区に伝わる御陣乗太鼓は、奇怪な面をつけた打ち手数人が一つの太鼓を囲み、気迫のこもった打ち込みで聴き手を圧倒する。戦国時代、奥能登に攻め入った上杉謙信の軍勢に対し、村人たちが木の皮でつくった面に海草をつけてかぶり、太鼓を打ち鳴らして追い払った伝説に由来するといわれる。

 名舟集落だけに受け継がれてきたその太鼓を、戦後になって世間に知らしめたのが池田さん。多い時には年間400回以上の公演を重ね、海外公演は6カ月以上に及んだ時期もあったと聞く。「ドコドコドコドコ」の地打ちにかぶせ、縁打ちも交えた激しい打ち込みは太鼓の革の消耗が早く、池田さんは革の破れた太鼓を背負ってよく浅野太鼓に駆け込んできた。その胴の最大径は1尺5寸5分(約47cm)。新調する場合も必ず1尺5寸5分と決まっており、ある時、なぜその寸法にこだわるのかと問うと「1尺6寸(約49cm)では列車の乗降口を通れない」とのこと。なるほど。太鼓一つを抱えて仲間とともに列車でどこへでも向かう池田さんの、どうしても譲れない鉄則だった。生前の父はそんな池田さんを嬉しそうに迎え、御陣乗太鼓特有の「カーン」と甲高い音を発するよう、繊維の細かい革を特別に吟味して張力の限界ぎりぎりまで締め上げた。つねに全力で打ち切る池田さんへの、父なりの手助けだった。

 御陣乗太鼓は昭和35年(1960)に保存会を設立。38年、石川県無形文化財指定。池田さんは78歳で現役を引退するまで60年以上にわたって太鼓を打ち続け、平成16年(2004)、太鼓打ちとしては初めて旭日双光章を受章。平成24年に逝去された。今では池田さんの教えをうけた世代が、石川を代表する芸能として御陣乗太鼓をしっかりと継承している。

 御陣乗太鼓は、毎年、7月31日から8月1日にかけて行われる『名舟太祭』で奉納される。昨年はコロナ禍により祭礼が中止されたが、今年は規模を縮小して開催。久し振りに名舟の海にとどろいた太鼓を、池田さんも父もきっと喜んで聞いていたことだろう。

昭利の一本道 [13] 37歳、経営を引き継ぐ

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 昭和57年元旦の日経新聞に父の記事が掲載されたことは、予想以上の反響をよんだ。さっそく翌日から、大太鼓の注文や問い合わせが相次いだ。中でも思い出深いのは、名古屋で「何でも貸します」のキャッチフレーズで業績を上げていたイベント会社『近藤産興近藤成章社長』さんから製作依頼を受けた6尺5寸(約1.95cm)の大太鼓。およそ2年をかけて完成した大太鼓の胴の中に金箔張りと、胴の中央に金箔で大きく描いた「ん」の文字は、当時119歳で長寿世界一と話題になった泉重千代翁の揮毫。

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巨大な漆塗りの御所車に鎮座したきらびやかな太鼓は、テレビや新聞で賑々しく紹介された。通称『「ん」』太鼓」は59年9月に納品したが、父はその3カ月前の6月に75歳で他界。「ん」太鼓に続き、新聞で述べた抱負が実現し「世界一の大太鼓」として翌60年に奉納した大國魂神社の6尺6寸御先拂太鼓ともども、完成を見ることなく旅立ったのはさぞや無念だったろう。
(写真右:6尺6寸大太鼓 御先拂太鼓 大國魂神社) 

 ほとんど家庭を顧みず、太鼓づくりもいちがいを通した父で、心から尊敬できたわけではなかったが、亡くなってみるとやはり心細かった。「自分に会社を引っ張っていけるだろうか」。亡くなる少し前、死期の近いのを悟った父から実印を渡され、経営を引き継いではいたが、この先うまく運営していけるのか。太鼓づくりの技術も、肝心な部分は自信がなかった。また父独特の考え方により、借金もあった。「子供には財産より借金を残すに限る。借金は人を働かせる」と。無理に金沢に買い求めた土地が恨めしい。 

 だが弱音を吐いているヒマはなかった。太鼓はますます人気が高まり、かつて小口さんが言ったように、世界的な広がりを見せてきた。『鼓童』を退団してソロの打ち手となった林英哲さんが、太鼓奏者として日本で初めてアメリカのカーネギーホールに立ったのはこの年だ。チューニングに同行した私も、日本の太鼓にアメリカの観客が歓喜する光景が誇らしかった。

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(写真左:林英哲氏とエンパイアビルにて 写真右:打ち上げ)

 それにつけても、かつてないまぶしい陽が太鼓に当たり始めたことは間違いないと37歳の私は確信した。太鼓づくりの家に生まれ、これからも太鼓というただひと筋の道を歩いていくだろう私は、40代、50代、60代になった時、どんな風景を見ているのだろう。そう思うと未来に対して何一つ設計図を描いていないことに一抹の不安を覚える一方、自分の発想次第でこれまで誰もやったことのない冒険にも挑戦できるのだと、胸がわくわくするのだった。

昭利の一本道 [12] 川田公子さんの太鼓、『鼓童』の太鼓

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 女流太鼓の草分け『みやらび太鼓』の川田公子さんに初めてお目にかかったのも、発足して間もない日本太鼓連盟の講習会場だった。昭和14px;">年に日劇の『春の踊り』で太鼓奏者としてデビューされた川田さんのお顔はたびたびテレビで拝見していたが、実際に目の前でほほえんでおられる女性はテレビで見るよりずっと美しく、華奢だった。「この人が、本当にあの力強い太鼓を打つ人だろうか」。私はどぎまぎしながら挨拶を交わし、いつかこの人の太鼓をつくってみたいと強く思った。

 その日は意外に早くやってきた。川田さんも私も若く、怖い物知らずだった。川田さんのアイデアで、いくつかの太鼓を組み合わせた二面太鼓や三面太鼓、あげくは一枚革をそのままホリゾントに吊り下げた公子太鼓や大団扇太鼓など次々に型破りな太鼓に挑戦。私はゼロから始めるモノづくりの面白さを知った。

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川田さんはそれらの太鼓を使い、舞台に芸術作品の花を咲かせた。それまで太鼓の舞台といえば、数曲の楽曲を順番に演奏する単純な構成だったが、川田さんはリサイタルごとにテーマを設け、内容に合わせた音づくりとストーリー性を持たせた進行によって大きな一つの物語を紡いだ。そうした手法はその後多くの演奏者に取り入れられ、総じて太鼓舞台の芸術性を高めることになった。昭和57年、第2回リサイタルで文化庁芸術祭優秀賞を受賞。太鼓奏者として日本で初めての快挙だった。

 一方、佐渡では、昭和46年に旗挙げした『佐渡の國鬼太鼓座』が10年間の活動を経て解散。代表の田氏と座員たちの考え方の乖離が原因と聞いた。田氏は太鼓と鬼太鼓座の看板を持って佐渡を離れ、残った座員たちは『鼓童』を設立。代表になった「ハンチョウ」こと河内敏夫さんからふたたび太鼓一式の注文を受け、私は同年代の若者たちの行く手を太鼓づくりの立場から応援しようと心に決めた。

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 さて、57年といえば、我が家の家宝となっている新聞がある。昭和57年(1982)1月1日付けの日本経済新聞。その24面の紙面中央に、白抜きで大きく「景気よくドンと〝世界一〟」の大見出し。横に「巨大太鼓づくりに「新年の計」浅野義雄」とある。昭和52年、府中の大國魂神社二之宮に,口径6尺2寸(約1.9m)という日本一の大太鼓を納めていたが、今年はさらにそれを上回る日本一、いや世界一の大太鼓をなんとしてもつくりたいと、年頭にあたって大太鼓製作に意欲を燃やす父の気概が意気揚々と紹介されている。しかも驚くべきは、父の記事を囲むそうそうたる顔ぶれ。元旦にふさわしく、干支の戌を描いた挿絵は日本画の大家・奥村土牛の作。現在も連載が続いている『私の履歴書』は経済団体連合会名誉会長の土光敏夫、『交遊録』には日本画の橋本明治が登場。下段の連載小説『狼が来たぞ』は芥川賞作家の古山高麗雄。そしてサントリーの広告に至るまで、新日本製鐵社長の武田豊の寄せ書きという豪華さで、期せずして父の一世一代の晴れ姿となった紙面だった。

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昭利の一本道 [11] 『御諏訪太鼓』小口大八さんのこと

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 6月27日は小口大八さんの命日だ。交通事故で突然亡くなってから14年になる。

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 小口さんには、30年以上もおつきあいをいただいた。初めてお目にかかったのは昭和54年。発足まもない全日本太鼓連盟が箱根で開催した『第一回日本太鼓連盟講習会』の会場。当時、数少ないプロの太鼓打ちとしてすでに活躍著しかった小口さんは、全国に太鼓を広めようと情熱に燃え、まぶしいほどに輝いていた。太鼓連盟の設立も、全国の太鼓団体をまとめるために奔走した小口さんの尽力なしには実現しなかっただろう。

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 会場の一角で太鼓を展示していた私に小口さんは気軽に声を掛けてくれ、「この世界はこれからどんどん広がる。お互いに頑張ろう」と肩をたたいた。そう言われても、北陸の「井の中の蛙」に過ぎない当時の私には未来の太鼓界など想像できず、曖昧にうなずいた。この時、取材に来ていた報知新聞の記者が私たちの会話を聞きつけ、「これから太鼓は本当に広がると思いますか?」と近寄ってきた。小口さんはきっぱりと「広がります。大きくなります!」と胸を張った。その自信にあふれた声は、今も私の耳にはっきり残っている。 (写真左:天鼓 小口大八の日本太鼓論より)

 果たして小口さんの予言通り、太鼓は急速に日本列島に普及した。ことに昭和60年代初頭からの地域活性化ブーム時代には、全国の多くの自治体が村おこし・町おこしの手段を太鼓に求めることが社会現象の一つにまでなった。さらに一方では、テレビや舞台で活躍する『御諏訪太鼓』をはじめ、『御陣乗太鼓』『鬼太鼓座』などのプロ集団に触発された若者たちが、地域や伝統にとらわれない新しい太鼓の形として、創作太鼓のグループを次々に立ち上げた。その結果、地域に根ざした伝統の太鼓をはじめ、パーカッションの要素を取り入れたリズム重視の太鼓、太鼓音楽に芸術性を追求する求道的な太鼓までさまざまな太鼓音楽が乱立することになったが、小口さんは「太鼓は楽しむもの。人の心を一つにする。どんなリズムも打法も、太鼓の表現であることに変わりはない」と、すべての太鼓をおおらかに受け入れて見守った。

 心から太鼓を愛し、亡くなる直前までばちを握った人の通夜は、岡谷市の自宅で静かに執り行われた。近所の人々は早々に焼香をすませ、やがて遺影の前には太鼓関係者だけが残った。小口さんの死を悼み、関東や関西、近畿、遠くは九州から駆けつけた人々もおり、誰からともなく思い出を語っては在りし日の姿をしのんだ。太鼓にかかわる話をしている限り、小口さんもにこにこと笑って話の輪に加わっているような気がした。太鼓界では誰知らぬ人のない『御諏訪太鼓』という一つの時代を築きながら、決して驕ることなく、最後まで市井の人として質素な生き方を貫いた小口さんの偉大さが、あらためて胸に迫った。

 今、手許に一冊の本がある。『天鼓 小口大八の日本太鼓論』。昭和62年、小口さんが63歳の時に御諏訪太鼓の歩みを振り返って綴ったものだ。322ページにおよぶハードカバーの本には、ジャズバンドのドラマーだった小口青年と和太鼓との出会いに始まり、小口さんが開発した『複式複打』、すなわち複数の太鼓を複数人で打つ組太鼓の魅力や、数々の名曲の誕生秘話、楽器に対する思い入れ、公演先に楽器を残してくることで太鼓への関心を持続させた世界的な太鼓の拡大化、和太鼓振興にかける思いなどが詳しく記されている。その中に、太鼓の打ち方の基本を10項目にわたって述べた『鼓道十訓』というのがある。すべての太鼓打ちへの、小口さんからの遺産として、ここに紹介する。

一. 足腰きたえて打ち込み三年(太鼓の生命は響き、音量、韻であり、スピードと強弱の組み合わせは迫力となり、勇壮感に満ち、とどろきとなって聞く人々に深い感銘を与える)

二. 構え方、足を開き腰を落として太鼓に遠く(ばちさばきは大技となり空間をうめる)

三. 足で感じて体で打つ(手首小手先の打奏はだめ)

四. 叩くに非ず打ち鳴らせ(人々の心をも打ちならす)

五 . 点で打ち線で打つな(ベタ打ちはだめ)

六 五で打ち五で引きアウンの呼吸(限界ギリギリの最強最弱)

七. 音半分振り半分(ばちさばきが半分の重要素である)

八 目線ばち先ばちの位置、胸先の打奏はだめ(空間にも太鼓と音がある)

九 . 強弱長短緩急弾無、技で打つより顔で打て(表情)

十. 無念無想一打全魂汗と血と心で打て(人間の生命力とバイタル)

 小口さんに最後のお別れを告げた告別式は8月6日。代表作の曲名そのままに『阿修羅』のごとくに84年の生涯を走り抜けた偉大な先達に、心をこめてねぎらいの言葉を贈った。

昭利の一本道 [10] ブビンガと工場の機械化

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 太鼓の胴はケヤキを最上の材とする。材質が重硬で堅牢、そして優美な木目模様を持つからだ。重い材質は軽い材質より音を多く跳ね返す性質を持っている。太鼓はバチで革を打たれると同時に胴内の空気が振動し、音の発生源(バチで革を打った音)に共鳴する。振動した空気は、壁、つまり胴に跳ね返って反響するが、この時、壁が硬いほど音は跳ね返りを多く繰り返して反響する時間が長くなり、いわゆる「残響」を生じる。また堅牢さは木質の粘りとなって革を留める鋲を強い力でつかみ、強烈な打撃に対して耐久力を発揮する。そして美しく気品のある木目は、まさに木材の王様たるや、舞台の上でどっしりした存在感を放つ。それゆえ、ケヤキ製の太鼓は人気が高く、昭和52、53年ごろからは口径5尺(約1.5m)や6尺(約1.8m)の大太鼓もケヤキ製を望む注文が増えた。

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 そうした日々、毎朝午前7時きっかり、きれいに髪を整え、きちんとした身なりで高級車のクラウンに乗って工場の前を通る人物がいた。近くに倉庫のある川吉木材の社長だった。毎朝の定例行事なので、いつしか言葉を交わす仲となり、話は自然に木材のことに。本来、家具材や建築用材として需要の高いケヤキが、太鼓の材料としても最良なこと。そのケヤキが、とくに幹の直径1mを越す大径木が近ごろ品薄になってきたことなど、ついついボヤいた。本当に、たわいのない愚痴のつもりだった。ところが、社長からこともなげに返ってきた言葉にびっくり。「それなら、ケヤキに材質が酷似したブビンガを使えばいい」と。ブビンガ! 初めて聞く木の名だった。アフリカ産のマメ科の高木。直径3m、樹高は30m以上にもなり、材質は重硬。耐摩耗性と強度が高く、ワインレッド系の深い色調と美しい木目が特徴とのこと。まさに求めている木材にドンピシャではないか! それでも半信半疑の私に「近々、大阪南港に荷揚げする木がある。

見に行くか」と社長。二つ返事で対面した巨木は、樹齢600年近く。まさに「神が宿る」と形容したくなるほどの堂々とした姿を岸壁に横たえていた。

 これがブビンガとの出会い。はじめは予想以上の重さと硬さで扱いに手こずることもあったが、いくつか太鼓をつくるうちにコツを会得。以後、浅野太鼓になくてはならない原木となった。今ではブビンガの存在は広く一般に知られ、その強靱さと堅牢さゆえに祭礼で巡行する山車の車輪などにも用いられているようだ。まったく川吉社長に感謝、感謝だ。

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 同時に、大太鼓製造工程の動力化を進めたのも53年。10年ほど前から胴の中ぐり(輪切りにした原木の内部を刳りぬき、太鼓の胴の形を整える作業)に動力を導入していたものの、機械にかかるのはせいぜい口径2尺5寸(約75cm)程度の中太鼓まで。それ以上の大きな太鼓の中ぐりはすべて手作業。職人二人が毎日チョンナで削り、3カ月かけてようやく胴の形をつくっていた。これでは受注に対応できるわけもなく、太鼓づくりの省力化という日本で初めての技術開拓に着手。まったく手さぐりではあったが、幸い石川は輪島塗や山中漆器など木工芸が盛んで、木を削る機械においては多くの n技術を有していた。それらの機械メーカーによびかけて工夫を重ね、ついに大型の旋盤加工機を開発。どんな大きな太鼓の注文にも対応できるようになった。こうして、ブビンガと胴の中ぐり機のおかげで、後に浅野太鼓は日本の大太鼓のおよそ7割の生産高を占めることになる。

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 この年4月、有限会社浅野太鼓楽器店を、株式会社浅野太鼓楽器店に組織変更した。従業員は家族を含めても10名足らずだったが、株式会社になったことで企業としてようやく一人前になったと思うと嬉しかった。

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 昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪万博という日本の2大イベントのおかげで明らかに追い風が吹いてきた太鼓芸能に、52年、さらに新たな展開が訪れた。静岡県御殿場市で社会福祉事業を営んでいた『社会福祉法人富岳会』が、心身に障害がある人々の活動に、日本で初めて太鼓を取り入れた。障害の機能回復と、利用者の社会生活への適応を目ざすという。

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理事長の山内令子氏によれば、たまたま施設で開いた納涼盆踊りで地域の青年団員が太鼓を打つのを見て、利用者の一人が突然櫓に上り、嬉々として真似をする光景を見て「これだ!」とひらめいたという。太鼓を打つことは集中力を養い、身体を使うことはリハビリにつながる。太鼓はまったく経験のない令子氏だったが、長野県岡谷市で『御諏訪太鼓』を主宰していた小口大八氏のもとに足繁く通い、まずご自身が指導を受け、施設に戻って職員に伝え、職員がさらに利用者に伝える。遠回りな指導法だったが、令子氏は根気よく続けられた。やがて職員と障害のある利用者による合同チーム『富岳太鼓』を結成。現在は令子氏の後を継いで二代目理事長となられた長男の剛氏がチームを率い、自主公演や他施設への慰問など、年間約100公演を実施されている。

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 一方、東京では日本の伝統芸能の殿堂である『国立劇場』で、太鼓だけの公演『日本の太鼓』がスタート。当時、国立劇場芸能部のプロデューサーだった西角井正大氏のお骨折りのおかげで実現したもので、第一回の出演団体は、石川県の『御陣乗太鼓』、東京の『助六太鼓』、長野県の『御諏訪太鼓』など。以後『日本の太鼓』公演は、昨年の特別企画公演まで44年にわたって開催されてきた。日本の太鼓文化がここまで成長してきた要因の一つとして、この公演が果たした功績は計り知れない。

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 また、『日本の太鼓』については、私もさまざまな面から関わらせていただいた。毎回のテーマに合わせた出演団体の推薦や、舞台で使用する太鼓のレンタル協力のほか、自前で育てた女流太鼓チーム『炎太鼓』や青少年チーム『サスケ』も何度か舞台に立たせていただいた。西角井氏の後任としてロデューサーに就任した茂木仁史氏(現在は国立劇場おきなわ調査要請課長)とも親交を深め、今も年に数回は杯を交わす仲だ。

 

 

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 田耕氏との長いつきあいが始まった同じ年、大阪府吹田市で日本万国博覧会が開催された。通称『大阪万博』。岡本太郎氏がデザインした巨大なオブジェ『太陽の塔』をシンボルとしたテーマゾーンの、地上、地下、空中の3層にわたる展示空間で、博覧会のテーマである『人類の進歩と調和』が、世界77カ国と四つの国際機関による88のパビリオンで表現された。中でも人類初の有人月着陸ロケット『アポロ11号』が月から持ち帰った『月の石』を展示したアメリカ館は長い行列が絶えず、人波に押されてゆっくり石を眺めることもできなかった。そして太陽の塔の背後に設けられた『お祭り広場』では、世界各国や国内各地の芸能、舞踊などが毎日披露された。ここでもっとも人気を集めたのが和太鼓。183日間にわたる博覧会開催期間中、北は北海道の『蝦夷太鼓』、南は熊本の『人吉臼太鼓踊り』まで、全国の30あまりの伝統太鼓や神楽が公開された。期間中に博覧会を訪れた入場者はのべ約6422万人というから、そのうち3分の1がお祭り広場を覗いたとして、およそ2140万の人が太鼓や太鼓を伴奏にした芸能を観覧したことになる。こうして太鼓が、また少し裾野を広げた。

0520.2022.a4.jpg 0520.2022.a3.jpg (写真左:月の石)

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 太鼓への追い風は、我が家の背中をも押してくれた。家内工業に毛の生えた程度の規模で営んでいた浅野太鼓店を、この年、『有限会社浅野太鼓楽器店』として法人化。翌46年に結婚。47年には鬼太鼓座の田氏から太鼓製作だけでなく、太鼓指導の相談も受けるようになっていた。当時、鬼太鼓座は太鼓集団と銘打っていたものの、実は太鼓を打てるメンバーはほとんどいなかった。そんな実情をなんとなく察していたので、北陸に伝わるリズムをベースした伝統太鼓では右に出る者のない名人で、以前から我が家に出入りしていた下村の爺さん(下村圭一)に指導を打診した。最初はあまり乗り気ではない様子だったが、私と連れ立ち、鬼太鼓座が寝泊まりしていた佐渡に向かうと、真剣な表情の若者たちに心を動かされたのか、快く引き受けてくれた。

 その後も、これぞと思う太鼓打ちを何人も紹介した。今では多くが他界してしまったが、時折、当時のメンバーと昔語りをする機会があると、懐かしい名前が飛び出すことがある。

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 そして昭和50年(1975)、私は鬼太鼓座の初めてのアメリカ渡航に同行。日本とは気温や湿度が大きく異なるアラバマ州のオーバーン市やマサチューセッツ州のボストン市など、行く先々で太鼓の革の張力をチューニングした。私にとっても初めてのアメリカ上陸で、あれもこれも記憶に残っているが、ことに鬼太鼓座初参加のボストンマラソンで、ブレデンシャルビルの前のゴールに次々にゴールインしたメンバーが、最後の力を振り絞って勢いよく太鼓を打ち鳴らして観衆にアピールした光景は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。

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昭利の一本道 [7] 田耕氏との出会い

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 こうして太鼓が全国的に注目され始めた昭和45年のある夜。見知らぬ男が、ふらりと我が家にやってきた。無遠慮な視線で工場の中を眺め回すと、いきなり世界地図を広げ「太鼓で世界を回る。太鼓一式つくってもらいたい」と男は言った。洋服の上に綿入れのドテラを羽織ったうさんくさい身なりで、どんな職業なのか見当もつかない男だったが、その口から出た言葉は父や私の度肝を抜くには充分だった。「太鼓を演奏して世界を回るとは、何を夢のようなことを」とあきれる反面、「そんなことが実現したら、なんと素晴らしいだろう」と私たちは男を見つめた。そして次の言葉にまた私たちは驚いた。「ただし、金はない」と。

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聞けば、我が家に来る前に東京浅草にある太鼓の老舗店を訪れ、同じく「金はないが太鼓が欲しい」と談判したところ、あっけなく断られたという。それはそうだろう。そこで男は考えあぐね、以前小耳にはさんだ北陸で細々と太鼓をつくっている我が家のことを思い出し、その足で松任までやってきたそうだ。男の突然の無謀な申し出に父はしばらく思案していたが、やがて「よかろう。太鼓をする人間に悪人はいない」と、出世払いを約束させて太鼓一式つくることを引き受けた。はらはらしながらなりゆきを見ていた私も、父の言葉にほっとする思いがした。本当にこの男の言う通り、世界中に浅野の太鼓が鳴り響く日が来たら、私の未来も変わる気がしたからだ。そしてその予感は、やがて的中することになる。

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(写真左より:田耕氏、永六輔氏)

男の名は田耕(でんたがやす)。初めて日本の太鼓を海外の舞台で披露し、小澤征爾氏や石井眞木氏など世界的に知られる音楽家たちの目を太鼓に向けさせた人物。そして現在の舞台芸能としての太鼓演奏の礎を創り上げた『佐渡の國鬼太鼓座』の主宰者。こうしてはからずも彼らの太鼓をつくったことが契機となり、我が家も新しい試みに次々と挑戦することになった。まず手始めに、サントリー株式会社がスポンサーとなって鬼太鼓座に寄贈したケヤキの3尺8寸の大太鼓を製作。続いて同じく寄贈のケヤキ長胴2尺4寸の二番太鼓、2尺3寸の三番太鼓。さらに鬼太鼓座自前の6尺の桶胴太鼓、3尺の平太鼓と、次々に大型の太鼓をつくったことが新聞などで話題になり、翌年には北海道登別の第一滝本館や東京都府中市の大國魂神社など、それまで手の届かなかった依頼主からの注文が立て続けに舞い込むようになった。また田氏を介して、鬼太鼓座の立ち上げにかかわった放送作家の永六輔氏や、民俗学者の宮本常一氏、サントリー社長の佐治敬三氏、俳優の小沢昭一氏など、それまでまったく接点のなかった多くの文化人の知己を得ることになった。それらの人々と交流を重ねるにつれて、機械のことや太鼓づくりの知識はあっても文化や教養にはとんと縁遠かった私の無知な脳みそは、人間が豊かに生きていくためには心にも栄養が必要なことを知った。

 振り返れば、出世払いと約束した太鼓一式の代金は完済されないままに田氏は逝ってしまったが、私は金銭に換えがたい多くの宝を田氏からいただいた。

昭利の一本道 [6] 太鼓ブームの黎明期

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 昭和40年3月、小松実業高等学校を卒業。家業の太鼓づくりはすでに二歳上の兄が手伝っており、月に二つも売れれば「御の字」の作業場にこれ以上人手は要らなかった。さて、自分はどうしよう。あれこれ思案し、社会勉強を兼ねて繊維関係の会社に就職。当時の石川県は、のちに『繊維王国』として全国にその名をとどろかす繊維産業の成長期で、織元や撚糸など繊維関係の会社はどこも好景気だった。幸い実業高校で多少なりとも機械にふれていたこともあり、すんなり仕事になじむことができた。それからの3年間が、私の人生の中で唯一「他人の飯を食った」時代だった。この期間の経験や職場で感じたさまざまな矛盾などが、やがて自分が経営する側に立った時に大いに役立った。貴重な体験だった。

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  (写真左:部落に数件あった太鼓屋さんの中橋さんが作った太鼓)

 この年、2年前の東京オリンピックを自宅で観覧するためほとんどの家庭に普及していたテレビで、NHKから『ふる里の歌まつり』という番組がスタート。弁舌爽やかな宮田輝 司会で、全国各地に出向き、各地に古くから伝わる郷土芸能や年中行事を中心に、ふるさと民謡や風俗、習慣、時々の話題を織り込みながら、地元出演者とゲストが歌や芸能を繰り広げるという内容で、長野の『御諏訪太鼓』や東京の『助六太鼓』、福岡の『小倉祇園太鼓』、そして石川の『御陣乗太鼓』などが相次いで出演。そんな中で一番記憶に残っているのが「鹿児島の棒踊り」でした。今でも是非呼んでみたい芸能でした。また福岡の『嚢祖太鼓』が文化庁の芸術祭にかかわる催しに出演したとのニュースも流れ、そんな影響もあってか全国的に徐々に太鼓人気が高まった。おかげで我が家も少しずつ注文が増え、22歳で会社勤めをやめて家業に入った。皮なめしにはじまり、革の仮張り、本張りなど、父の厳しい指導のもとにひと通りの技術をたたき込まれ、手空きの時間には加賀温泉郷の旅館へ御用聞きに。世はまさに高度経済成長期のまっただ中。加賀の各旅館には連日、全国から大型バスで遊興客が訪れた。その客をもてなす「お迎え太鼓」や宴会での「お座敷太鼓」、果ては温泉街のストリップ劇場でストリップと太鼓が共演する趣向まで現れ、どこの宿でも太鼓を欲しがった。有り難いブームだった。こうした温泉太鼓は、やがて加賀温泉から北陸一帯へ、そして全国の温泉地に広がり、やがて日本の太鼓文化の基礎をなして行った。今も太鼓演奏を呼び物の一つにしている旅館もある。