2025年12月 1日
どうしても胸の奥のざわめきを抑えきれず

どうしても胸の奥のざわめきを抑えきれず、ある朝ふいに思い立って、東京国立博物館で開催中の特別展「運慶祈りの空間―興福寺北円堂」へ向かいました。
以前から運慶に関する書物を読むたびに、心のどこかに小さな棘のような引っかかりが残り続けていました。
「いつか、本物に会わなければならない」。
そんな静かな声が、長い年月を経てようやく私の背をそっと押したのだと思います。
展示室に足を踏み入れると、空気がひときわ澄み、
薄い光の向こうに、千年の時を越えて立ち続ける像たちの気配が漂っていました。
● 最初に出会った弥勒如来坐像
最初に私を迎えてくれたのは、国宝 弥勒如来坐像でした。
薄明かりに静かに浮かぶそのお姿は、
ただ美しいという言葉では到底言い尽くせない、
優雅さと清らかさが重なり合った静謐そのもの。
すべての人を正しく導かんとする慈悲が、
胸の奥にふっと灯りを点すようで、
気がつけば深く合掌を捧げていました。
祈りの静けさとは、このようなものなのかと、
胸がじんわりと熱くなりました。
● 無著・世親―柔らかな人間の光
続いて現れたのが、国宝 無著・世親菩薩立像。
無著の眼差しは遠い悲しみをも受けとめるようで、
世親の佇まいには静かな思索の炎が宿っていました。
その前に立つと、胸の奥に小さな灯りがともるような温かさが広がり、
足が自然と止まってしまいました。 そこには、人が人を思う行為の、
もっとも根源的な優しさが宿っていました。
● 四天王という衝撃
そして最後に迎えた四天王像。
その瞬間、展示室の空気がさらに引き締まりました。
肉体の迫りくる圧。皮膚の下に潜む血の脈動。
解剖学を極めたレオナルド・ダ・ヴィンチを思わせる精緻な肉圧現。
今にも一歩踏み出してきそうなほどの緊張感と躍動。
まなざし、口元、そして沈黙の背中。
そのすべてに、
怒り、悲しみ、祈り、慈しみ、希望
人間が抱えるすべての感情が宿っていました。
眺めているうちに心の波が静かに引いていき、
やがて深い水底へ沈むように、私は 「無」 の境地へと落ちていきました。
千年の時を越えてなお、像たちの中で燃え続ける魂の熱。
人はここまで心を形にできるのだ。
その真実に触れられたことが、この日の最も大きな恵みでした。
● 太鼓文化との響き
静まり返った展示室を歩きながら、ふと気づきました。
太鼓もまた、木に命を吹き込む芸術なのだと。
響きはすぐに消えてしまう。
けれど、心に刻まれる振動は、時を越えて残る。
その共通する静かな力が、仏像たちの前でそっと胸に寄り添ってきました。
● 興福寺の記憶とブビンガの縁
歩きながら、もう一つの記憶が蘇りました。
2018年、興福寺の再建が完成した際、
日経新聞の文化欄に掲載された記事(アフリカ欅)
柱に使うべき欅の良材がどうしても見つからず、
遠くアフリカ・カメルーンの ブビンガ材を用いたという内容でした。
偶然にも、そのブビンガは私たち太鼓づくりでも馴染みの深い木。
重く、堅牢で、釘をしっかりと“つかみ”、叩けば豊かに響く。
木目は大自然の文様のように美しく、
太鼓づくりの現場でも、何度その力に助けられたことでしょう。
興福寺を支える柱と、人々に響きを届ける太鼓。
形は違えど、木に命を与えるという一点で深くつながっている。
その不思議な縁に思いを巡らせながら展示室を後にしたとき、
胸の奥には静かで深い余韻だけが残っていました。
2025年11月14日
日本列島、秋の芸術真っ盛り
異例の暑さ続きに「もう夏はうんざり!」と愚痴っていた日々からわずか数週間で、急いで暖房機を持ち出す日々がくるとは。まったく自然のやんちゃぶりに振り回されている今日このごろ。そんな中で去る10月19日、金沢の「金沢歌劇座」で「錦秋歌舞伎特別公演2025」が催されました。

歌舞伎公演ということで出演は中村勘九郎さんと、弟の中村七之助さんがをメインでしたが、第一幕「フリートーク」の最初の場面から、お二人と共に和太鼓奏者の上田秀一郎さんが共演。続く第二幕「光の道標」は上田さんのソロ舞台、そして最後の第四幕のコラボレーション「芯」2025で、ふたたび上田さんの太鼓と歌舞伎のコラボレーションという、歌舞伎公演ながら太鼓の出番満載の舞台で、驚くやら嬉しいやら。300余年の歴史ある伝統芸の歌舞伎と、わずか50年ほどの歴史の太鼓が肩を並べて同じ舞台に立たせていただいたことの感慨に思わず胸が熱くなったひと時でした。もちろんここに至るまでには上田さんの努力もさることながら、上田さんの師匠である林英哲さんの薫陶があったことは紛れもない事実ですが、18歳の時から何かと親しくしてきた上田さんの堂々とした演奏ぶりを拝見するにつけ、まるで我がことのように嬉しい公演でした。
その感激の余韻がまだ収まりきらない11月2日、山梨県高校芸術文化祭郷土芸能部門の審査員を依頼され、山梨県の韮崎市へ。全6校の出場校それぞれに修練を重ねた様子が垣間見られ、ことに優勝校は堂々とした演奏ぶり。一方、印象的だったのが、とある支援学校の太鼓部で、どの子もひたすら楽しげに太鼓に向かう様子がとてもほほえましく、ただ純真に楽器に向かう姿に太鼓の原点を見たように思いました。
昨今は全国同じような雰囲気の太鼓チームが多いように感じます。ですが、「狭い日本」ながら、それぞれに特色ある地域性があるはずなので、演奏形態にもそうした特色を取り入れ、個性ある演奏を、見せて、聞かせていただけることを願います。
2025年9月17日
フロリダの石倉さんを偲んで

長年の大切なお客様であり、遠い地で太鼓文化を根づかせてこられた 石倉武政さん が、70歳で旅立たれました。心よりご冥福をお祈りいたします。
四十年ほど前、私は 関東あばれ太鼓 の代表を務めておられたお兄さまのご縁で、弟の石倉さんと出会いました。やがて石倉さんは拠点をアメリカ・フロリダに移し、Matsuriza を立ち上げ数多くの門人を育て、太鼓の音を暮らしの中に根づかせてくださいました。
十六年前、節目の祝賀会にもご参列いただき、その後も幾度となくお会いしました。なかでも忘れがたいのは、2023年9月、日本での手術を終えられた帰路に立ち寄ってくださり、一緒に食卓を囲んで太鼓の未来を熱く語り合った夜です。まさかそれが最後の語らいになるとは、夢にも思いませんでした。
こんなにも早いお別れになるとは……胸に残る言葉が数多くあります。フロリダで育まれた門人のみなさんが、これからも石倉さんの志を受け継ぎ、太鼓の響きを次の世代へつないでくださることでしょう。
私どもの太鼓を愛し、共に歩んでくださったことに、心から感謝申し上げます。
どうか安らかにお休みください。
合掌
2025年7月26日
問答無用
ようやく梅雨が明けた7月20日、白山の地には容赦ない陽射しが照りつけ、まさに本格的な夏の到来を告げる一日となった。そんな猛暑の中、「白山国際太鼓エクスタジア2025」が開催され、国内外から多彩な太鼓奏者たちが集い、熱演を繰り広げた。
開幕を飾ったのは、林英哲と津軽三味線奏者・木乃下真市による《しぶき》。英哲氏のしなやかで力強い打音と、木下氏の鋭く冴えわたる三味線の響きが交差し、一音目から観る者を無言にさせた。“問答無用”――その一打がすでにすべてを語っていた。技巧も理屈も超えて、ただ心が動く。そんな演奏だった。
その後、舞台はさまざまな表情を見せながら熱を帯びていく。尺八の技巧を前面に出した太鼓座(USA)、土地の名を冠した魂のこもった手取亢龍若鮎組、そして凛とした響きが美しかった和太鼓サスケ:風花と続き、それぞれの団体が個性をぶつけながら舞台に渦を巻き起こした。
さらに、体の芯を揺さぶるような焱太鼓の躍動、続く座・壱太郎の洗練された構成と鮮やかなリズムが会場を沸かせ、舞台は最高潮へ。最後は林英哲+英哲風雲の会による、<七星>はまさに圧倒的というほかない迫力のステージ。ひと打ちごとに空気が震え、会場は音の重力に引き込まれていった。

一打一打が空を突き抜け、観る者の胸の奥深くまで響き渡る。舞台はもはや演奏ではなく、“生きた太鼓そのもの”がそこにいた。汗と熱気と感動が入り混じる中、観客はただ身を任せるしかなかった。
そんな舞台の音を、じっと見つめる地元の子どもたちの姿があった。プロたちの放つ音の背中から、彼らは何を感じ、何を受け取っただろうか。いまはまだ言葉にならないかもしれない。けれど、その心のどこかに確かに残った“響き”は、やがて音となり、次の世代の舞台へと受け継がれていくはずだ。
酷暑の白山の空に轟いた、幾千の太鼓の音。それは、理屈ではない。理屈を超えた、命の音だ。だからこそ――
問答無用。
2025年6月19日
能登に根付いた土着の太鼓に思う
梅雨入りしたのも束の間、このところ雨は小休止の晴天続きで、早くも梅雨明けしたかのような北陸の空模様。いっそこのまま・・・などと青空を望むのは自然の営みに反する私のわがままか。
さて、そうした中の先日、能登半島七尾市石崎で「県下太鼓打ち競技会石崎大会」が開催されました。実行委員長を務めたのは、長く石崎地区の太鼓団体を束ねてきた葛原伸二さん。私は葛原さんの要請を受け、午前8時の開始から大会を観覧しました。

競技会に出場したのは、大人の団体70組、子供団体30組。計100の団体が、次々にキリコ太鼓から発生した大バイ・小バイのリズムを刻みます。その光景を見ながら、一様に桶鼓、長胴、大太鼓を組み合わせた「単式複打」のリズムを、「複式複打」の奥行きあるリズムに育てられないか、などと独りよがりの妄想を膨らませたひと時。こんな戯言を、能登に根づいたリズムを子守歌のように慈しんできた能登の人々が聞いたら、なんと思うだろうか。少しばかり、やんちゃな血が騒いだ大会だった。
2025年5月19日
成田山千年夜舞台にて〜「焱太鼓」と「御陣乗太鼓」が奏でた対照の美
2025年4月、成田太鼓祭の「千年夜舞台」にて、石川県を代表する二つの太鼓が競演いたしました。
その舞台は、まるで闇夜に灯る炎と、突如として鳴り響く雷鳴のように、全く異なる個性が交錯するひとときとなりました。
今回、この貴重な機会をいただいたのは、「能登半島震災復興への応援を込めて、石川県から御陣乗太鼓と焱太鼓を招きたい」との強い想いを受け、私どもも快くお引き受けし、実現に至ったものです。そのお心遣いに、深く感謝申し上げます。

まず登場したのは、石川県を拠点に活動する「焱太鼓」。
炎をモチーフにした演出美と、端正に磨き上げられた演奏は、観る者の視線を一瞬にして惹きつけました。舞台上で展開されるリズムは、まるで揺らめく火の粉のように繊細でありながら、芯のある力強さを感じさせます。その姿は、まさに「炎の美意識」そのもの。女性たちによるきめ細やかな動きと、内に秘めた情熱が融合し、洗練された現代の太鼓表現として観客の心に深く残りました。

そして、もう一つの存在感を放っていたのが、石川県輪島市から参加した「御陣乗太鼓保存会」。
戦国時代の逸話をもとに、鬼面をかぶりながら荒々しく太鼓を打ち鳴らすその姿は、ただただ圧巻のひとこと。観る者を圧倒するような迫力と、太古の記憶に触れるかのような緊張感が舞台を支配していました。
特に今回の演奏には、能登半島震災復興への思いが深く込められており、打ち鳴らす一打ごとに、石のように重く、熱い願いが伝わってきました。あの瞬間、太鼓はただの楽器ではなく、地域の祈りを担う「心の響き」そのものであったように感じました。
炎のように舞い、心を照らす「焱太鼓」。荒ぶる魂を揺さぶる「御陣乗太鼓」。その対照が、和太鼓という芸能の奥深さと多様性を改めて感じさせてくれました。
さらに、今回の成田太鼓まつりでは、観光協会の皆様の献身的なサポートと、心のこもった手づくりの舞台づくりがひときわ印象的でした。舞台裏で黙々と動き続ける方々の真摯な姿に、あらためてこの祭りの深い根づきを感じました。私自身も数十年にわたってこの太鼓まつりに関わってきましたが、今や成田の地にしっかりと根を張り、地域おこしの成功例として多くの人に愛される祭りに育ったことを、心から嬉しく思います。

成田の夜空の下で響いたふたつの音。それぞれの「魂」が、観客の胸の奥に静かに、しかし確かに刻まれた舞台でした。
次回の成田太鼓祭では、果たしてどんな音が響くのでしょうか。今から胸が高鳴ります。
2025年4月 4日
ふりかえれば
3月には、当財団主催の桶バトルトーナメント、教室の発表会、そして日本太鼓財団主催のジュニアコンクール全国大会が大分で開催されました。ご参加いただいた皆様、お疲れ様でした。

これらの行事を通じて、改めて感じたのは、太鼓文化が今、大きな節目を迎えているということです。
戦後の復興期から、地域のまつりや教育、舞台芸術の中で太鼓が広がりはじめて約60年。黎明期の情熱と努力によって、太鼓は多くの人々に親しまれ、文化として根づいてきました。
そして今、その広がりの中で、それぞれの土地ならではの音や表現が、ますます大切になってきているように感じます。
郷土色を大切にするチームの存在は、これからの太鼓文化において欠かせないものです。
なぜなら、各地の風土や歴史、暮らしの中で育まれてきた音には、その土地に根ざした“物語”があるからです。
それらが失われてしまうと、太鼓はどこでも同じ音を鳴らす“単なる演奏技術”へと変わってしまい、文化としての深みや豊かさが薄れていきます。
すべてが同じような色に染まってしまえば、太鼓文化そのものが埋没してしまう。
それが、私の感じている危機感です。
どうか、心温まる土地の音文化を、これからも大切に、そして丁寧に残していただけたらと思います。
もちろん、優勝を目指すこともチームの目標として大切です。ですが、何よりもその土地への思いや誇りに満ちた太鼓の響きこそが、長く人の心に残るものだと信じています。
2025年3月 7日
太鼓の鼓動―アイデンティティを背負う音の力

先日、横浜市栄公会堂で行われた「三宅&鼓童」の公演を観た。そこには、ただの演奏ではなく、彼らが受け継ぎ、背負い、そして超えていこうとする“音の魂”があった。
三宅三兄弟が放つ一撃の凄まじさ。その一振り一振りに込められた覚悟と誇り。私はその音の強さを、ただ耳で聴くだけでなく、肌で感じていた。アイデンティティを背負う者の姿には、言葉を超えた力がある。それはまさに、身体と心で刻む音の芸――打芸の極みだった。
太鼓の妙とは何か。それは、人・バチ・音が織りなす一体感だ。ただリズムを刻むのではなく、打ち手の魂が音となって響き渡る。その瞬間、彼らと観客の境界が消え、会場全体が一つの鼓動となる。
轟く打撃音が、私の心を深く揺さぶった。ただの音ではなく、生きた証のように響くその音が、胸の奥にまで届いた。彼らが紡ぐ太鼓の音は、過去から未来へと受け継がれる“鼓動”そのものなのだと、改めて感じた。

2025年1月10日
一歩ずつ
謹賀新年
新しい一年が始まりました。一月が誕生月の私は、もうすぐまた一つ歳を重ねます。思えば太鼓と共に長い年月を歩いてきたものです。
この歳になれば、あらためて大仰な年頭の抱負など披瀝するつもりはありませんが、ただ一言、今年の指針は「一歩、一歩」。急がず、慌てず、今の我が身にできることを、ただ愚直に一歩ずつ。
そんな私ですが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2024年12月24日
2024年をしめくくる「嬉しいこと」「悲しいこと」
2024年は1月1日午後4時10分に発生した『令和6年能登半島地震』の恐怖に始まり、その後は地震に由来するあれやこれやの出来事に深く関わり、振り返ればあっという間の一年だったように思います。そんな日々の中にもとくに心に残る「嬉しいこと」と「悲しいこと」のできごとがあり、一年のしめくくりとしてここに記録します。
まず「嬉しいこと」として、太鼓奏者の第一人者である林英哲氏の「これまでの永年にわたる功績と、演奏活動55周年に向けて前途を祝する会」を開催できたことです。1970年の『佐渡國鬼太鼓座』の入座以来、国内外でさまざまな舞台に立たれ、太鼓奏者として初めてカーネギーホールで演奏したことや、世界の著名なオーケストラとの共演などを経て和太鼓を芸術の域にまで高めた英哲さんは、2022年、アジア地域の優れた文化の振興と相互理解および平和に貢献した人に贈られる『福岡アジア文化賞』の大賞(日本人ではアフガニスタンで銃撃に倒れた医師の中村哲氏が前年に受賞)受賞に続き、同年秋の叙勲で『旭日小綬章』を受章、さらに2024年には、中国地方において文化・芸術、学術・教育の各分野で功績のあった人たちを顕彰する『中国文化賞』 を受賞されました。これらの輝かしい顕彰に対し、「太鼓に関わる者としてお祝いの場を設けてはどうか」と『英哲風雲の会』の木村優一さんに相談したのがきっかけで、去る12月13日、英哲さんの懇意な人々や風雲の会のメンバーと共に『ホテルオークラ東京』にてお祝いの会が実現できました。英哲さん、50年以上にわたり大変お疲れさまでした。これからもどんな舞台を見せてくれるか、楽しみにしています。

そして、なんと、その席上、英哲さんから私に「感謝状」が贈られたのです! まったく思いがけないことでしたが、大判の賞状には英哲さんの思いが込められた直筆で感謝の言葉が綴られ、私は不覚にも驚きと感動の涙で視界がぼやけて、その場では文面を拝読する余裕もありませんでした。まことにまことに有り難く、あらためて心より御礼を申し上げます。

一方、「悲しいこと」として、12月16日、私の中で長く「心の師」と仰いできた、高知の明神宏和先生が逝去されました。先生とのお付き合いは、土佐山田太鼓創設の前年、今から38年前に始まりました。その後、先生は高知県内の全市町村に太鼓を普及され、つい最近までお元気で指導に出向いておられました。まさに見事な生きざまでした。白寿(99歳)まで天寿を全うされ、今頃は天国で奥様と再会され、楽しい会話をされていることでしょう。
お別れの時には、高知の太鼓の未来を担うであろう若者たちが心を込めて「送り太鼓」を打ち鳴らしました。「ああ、太鼓は『心』だ」。これほど心を感じたことはありませんでした。
そしてその数日前には、『公益財団法人日本太鼓財団』元理事長の大澤和彦氏が逝去されました。財団が『日本太鼓連盟』の時代から組織づくりに尽力され、その仕事ぶりに敬意を表します。6月の理事会で、辞任が決まった後、電話越しに「何とも残念だ」と悔しさを口にされていた声が今も耳に残っています。何があったのでしょうか……。今となっては、どうぞ心安らかにお眠りください。合掌
さて、読者の皆様には、この一年、たくさんの思いを寄せていただき、ありがとうございました。お陰さまで浅野昭利、今年も元気で活動することができました。どうか今後ともご向上のほど、よろしくお願い申し上げます。
そして皆様にはどうか良い歳の暮れと新年をお迎えくださるよう、心より祈っております。




